まだ年初の、寒い雨の金曜日。新年特有のうかれた気持ちも消えてしまって、もう会社など行きたくないとグズグズ準備をして出たら、電車を乗り過ごしてしまった。渋谷駅であれだけの人が下りて行ったのに、自分だけはまったく気付かなかったらしい。
次の駅で下りて反対のホームにゆっくりと向かい、渋谷まで戻る。雨は待ち構えていたように強くなって、職場のあるオフィスビルに着いた時には足下がだいぶ濡れて冷たくなっていた。ビルの入口にあるカフェはバレンタイン仕様。ハートマークのデレコーションが派手に飾られ、スーツ姿の会社員やら外国人観光客やらで賑っている。
オフィスフロアまでのエレベータに一人で乗る。先程までの喧騒が嘘のように静かである。受付を抜けて執務室へ向かうと、何人かの社員が泣いている。なにかあったのだろうが、見かけるのはあまり親しくない社員ばかりである。かける言葉が見つからず自分のデスクに辿りつく。
隣では同じチームの丸田がすでに仕事をはじめていたので声をかけた。
「どうかしたの」
「鬼が出たんだよ。早朝に。ニュースで見なかった?」
「見てない」私は言った。最近は戦争とか増税とか気の滅入る話ばかりで、時事の話にずいぶん疎くなった。
「最近、このあたりで出没が続いてたんだけど。今朝、うちの職場にも出て、三人くらい喰われたみたい。経理の内山さん、マーケの林さん、あと誰だったか」
「そうか」私は言った。「怖いね」
私が今の職場に転職したのは四年前のこと。当時は小さなベンチャーだったが、そのころから会社は急速に成長し、社員は百人をゆうに超え、五反田の雑居ビルから明るくて広い渋谷の高層ビルへと引っ越し、気付けば私は古株になっていた。
もっとも、仕事であまり同僚と関わりがないせいか、あるいはそれを言い訳にして人付き合いが悪いせいか、いつのまにかオフィスは知らない人ばかりになってしまった。丸田は入社してまだ二年くらいなのに、今や私が会社の噂を教えてもらう始末である。
経理の内山さんのことはなんとなく覚えていた。私より少し後に入社した、まだ若い女性で、経費精算が遅いと注意された記憶がある。それが彼女の仕事であることは十分に分かっているのだけれども、その時の彼女の厳しい口調を、どうしても一番に思い出してしまう。他にあまり話をしたことがなかったせいというのもある。忘年会で一度同じテーブルになって、海外旅行に行くのが趣味だと言っていたかもしれない。いつも地味な服装をしているわりに、ときどき派手な色のスニーカーを履いてくることがあって、どういう自己主張なのだろうと思うことはあった。
マーケの林さんはまったく知らなかった。丸田によれば、半年前に入ったばかりの経験豊富な中年男性だったらしい。この会社はなぜかマーケティング部で人の入れ替わりが激しく、先日も部長が退職したばかりだ。林さんは大手で部長経験もあって、なぜ比較的小さなこの会社にやってきたのが分からなかったけれども、次期部長候補の筆頭だったという。
私はこのフロアのどこかでそんなドラマがあったことを全く知らなかった。
鬼はなんの前触れもなく早朝に現れ、自慢の大きなナタを振り回し、ちょうど朝早くから働いていた人達を見境なく切り刻んでは、ばりばりと骨まで喰ったという。後にはなにも残らなかった。
「少し遅めに来て良かったよ」と丸田は言う。「雨で電車が遅れていたから」
「そうだな」私は答えた。私はさらに遅かったわけだけど。
泣いていた社員たちの多くは早退してしまい、オフィスはがらんとしていた。対照的に、オンラインでは鬼に喰われた人達を悼むメールが飛びかっている。
私はただぼんやりとして、仕事をする気力が戻るのを待ったが、それはいつまで経っても戻ってこなかった。一方の丸田は私との雑談を終えると、時間を取り戻すかのように黙々と資料を作っている。
正午になる。「昼食でも食べに行く?」と私は尋ねる。
「いや、もうちょっと片付けてから」と丸田は言う。
「そうか」私は言って立ち上がる。職場を離れて、どこか外に出かけたかった。そうやって執務室を歩くと、ふと、内山さんの机のそばを通りがかった。経費精算が遅いと、ここで注意されたのだった。デスクには彼女の地味な鞄がまだ置いてあって、社用のThinkPadが半開きになっている。最新のモデルだな、と私は思った。入社してからしばらく経つから、新しいのを支給されたばかりだったのかもしれない。
そういうことはすぐに気付くのだけれど。
鬼の存在を間近で感じたのはこれが初めてではない。
私は地元の関西で就職活動をしたのだが、当時はいわゆる氷河期であった。春先になっても雪はしんしんと降り続け、それとあわせるように、鬼の出没が話題になっていた。
当時まだ鬼は珍しかったが、それゆえに、出没被害が毎日のようにニュースで話題になっていた。いわく、鬼はあまり人里にやって来ない。ただ、こうして氷河期が続くと、山で取れるはずの食べ物が取れなくなる。だから鬼は食べるものを探してオフィス街などをうろつくようになる。食べるものとは、つまり人間のことだが。
私は夏休みのあいだも就職活動を続け、八月の終わりにようやく内定が出て、秋の内定式にすべり込みで招かれた。その日は一転してよく晴れた日だったが、夏中に降った雪はまだあちこちに積もっていた。
そうやって辿りついた内定式の冒頭だった。人事部の女性が、内定者の何人かが、今日ここに来る途中、鬼に遭遇して喰われたと言った。被害が総勢で何人になるのかはまだ分からないが、今のところ十人くらいを確認したと言う。私はその場にいた同期たちをぐるりと見渡した。確かに、三十人くらいの内定者がいると言われていた。いま内定式に出席しているのは十人ほどしかいなかった。
そのとき私達の対応をした人事は、背が高い上にさらにハイヒールを履いた女で、「あなたたちは鬼に喰われなくて運が良かったですね」と言った。
ひどい会社に来てしまったなと思ったが、だからといって逃げ出すわけにも行かなかった。午後から外ではまた雪が降りはじめ、鬼はどこに隠れているか分からなかった。
その日の夜のニュースでは、先ほどまで自分が内定式に参加していた会社が取り上げられていた。鬼は小規模のグループでオフィスの入口に待ち構え、内定式に早くから参加しようとした学生に襲いかかり、総勢で二十三人が喰われたという。
当時はそうやって鬼の被害が一つ一つニュースになり、犠牲者の名前が一人一人読み上げられていた。いまは渋谷に出没しましたと簡単に報じられるだけだ。
私はけっきょく、その会社で十年ほど働いた。地球温暖化が急速に進行して、氷河期が明けるまで、それくらいの時間がかかった。氷河期は終わり、鬼は人里に現れなくなった。そうして私は小さな五反田の雑居ビルにある小さなベンチャーに転職した。
渋谷で鬼の被害が出た日のあとも、仕事はふつうに続いた。取引先はみんな「大変でしたね」と声をかけてくれたが、かといって仕事の量を減らしてくれたり、予算を引き上げたりはしてくれなかった。
あの日、泣いていた同僚たちも、週明けには職場に来て仕事をしていた。内山さんの机は綺麗に片付けられ、しばらく空いたままだったが、夏前には新しい経理の桂さんが入社して利用するようになった。桂さんはおっとりとした中年女性で、即戦力と社内でも評判が良かった。私が領収書をなくした時も、笑って対応してくれたのだった。
夏の終わり、丸田と行き着けのカレー屋に行った。丸田はカレーを一口食べたところで言った。「鬼がまた来るかもしれないな」
「なぜ?」私は答える。
「景気があまり良くないから」丸田は言った。
「そうかもしれない」私は答えた。相変わらずニュースはあまり見ないようにしていた。景気がいいとか悪いとか、どうでも良かった。
「仕事があるってありがたいよな」と丸田は言った。
「それは、自分は鬼に喰われなくて良かった、ってことか」
「そうじゃなくて、仕事のおかげで鬼のことを考えずに済むということ」
「なるほど」私は言った。「でも、そもそも鬼に会うのは仕事に来るからで、家に籠ってたら鬼には喰われなくて済むんじゃないの」
「それはそうだが」丸田は言う。「まあ、それも悪くはないんだが」
秋のよく晴れた日、いつものようにオフィスに向かったら、入口が閉鎖されていた。刑事ドラマで見るような黄色の派手なテープがあちこちに張り巡らされ、警備員か警察官がビルに近付こうとする人達を追い返している。ビル入口のカフェはハロウィン仕様で、骸骨やら南瓜やらで飾りつけられていたが、黄色のテープはそちらまで伸びてデコレーションと同化していた。
入口では何人かの同僚がその場で立ち往生していた。その中に、経理の桂さんもいた。
「どうかしたんですか」私は声をかけた。
「あの……ええ……鬼が……」桂さんは言った。見ると彼女は涙を浮かべていた。「うちの会社だったみたいです。広報部がみんな……五人いたのに、全員……」
翌日、会社から広報部の採用は行わず、今後は外部のエージェンシーを利用することが発表された。
年末、職場ではクリスマスパーティーがあった。オフィス近くのイタリアンレストランを貸し切って、ここぞとばかりにみんな騒いでいる。夜になっても不思議なほど暖かな一日で、多くの社員がテラス席に陣取り、ボトルワインを次々に開けていた。直前に大きな案件が決まったことで、会社はだいぶ前向きな雰囲気になっていた。
私は店内の隅で、丸田と生ハムをつまんでいた。私は一緒に騒ぐ相手がおらず、丸田は下戸だった。
「こういう時でも鬼のことを考えてしまう」と丸田は言った。
「みんなそうだろうよ」と私は言った。「明るく騒いで忘れようとするか、暗く沈みながら思い出そうとするかの違いで」
「内山さんのこと、覚えてる?」と丸田は言った。
「前の経理のね」私は答えた。「ときどき派手なスニーカーを履いていた」
「あれ、私がプレゼントしたんだ」丸田は言った。「つまり、一時ちょっと付き合ってたんだけど」
「本当かよ」私は答えた。「本当か。えらく淡々としてるな」
「自分でもそう思う」丸田は言う。「誰も知らないはずなのに、別れてからオフィスで顔を合わせるのは気まずかった。なんで別れたのかも正直もう思い出せない。だからまあ、でも、すごく寂しい」
「そうだな」私は答えた。そしてビールを飲んだ。
社員の多くがあちこちでアルコールをさらに摂取しようと試みていたが、店側は予約時に決められたラストオーダーの時間を過ぎていることを根気強く説明していた。
締めの言葉を任された社長がマイクを握って、長々と話を始めた。「それにしても、今年は最高の一年でしたね!」それから「来年も素晴らしい年になるはずです!」と。
鬼が笑わなければいいが、と私は思った。
年の瀬の金曜日、珍しく渋谷で朝から雪が降った。当然のように鉄道網が混乱し、私はオフィスにいつも以上に遅く着いた。受付を通り、執務室を抜けて自分の机に近付くと、そこに鬼がいた。二メートルくらいの背丈で、腕や足は電柱のように太かった。右手には大きなナタを持ち、左手には人間の頭部を抱えていた。
「ああ」私はつい声を漏らした。見渡す限り、オフィスは他に誰もいなかった。すでにみんな逃げ出したか、逃げ遅れた後のようだ。「なんだよ」
鬼は私に気付くと、こちらをじろりと見た。そうして言った「交通事故だよ」
鬼が喋るとは思わなかった。「なんだって?」
「なんだと言うなら交通事故だと私は答える。交通事故で人は死んでいるが、消えてなくなれと車に言うことはない。流れを社会に生むために車は必要だから」言いながら鬼は退屈そうにブラブラとナタを揺らしている。
私は言った。「おまえが私の同僚を殺した。交通事故とは違う」
「同じだよ。人を鬼が喰う。古い人が死に新しい人が現れる。そうやって会社に流れを生む」
私は鬼が抱える頭部に目をやったが、直視はできなかった。「だったら私を喰えば良かっただろう。私のほうが古株なんだから」
鬼は溜息をついた。深い溜息だった。鬼は溜息をつくのかと私は思った。
「ここに先にいるなら私は喰う。しかし先にいるのは私であり、この人間である。なすべきことを私はする。今日はもう終わる」言いながら鬼はナタを振り上げた。「しかし死ぬことを望むなら叶えられる」
私は少し後ずさりしてから、回れ右をして、走り出した。鬼は追って来ていないようだった。
なぜ私が、と私は思った。なぜ私が鬼から逃れ続けられるのか。私よりまともな人生を送っている人達が、そのままの人生を送れないのはなぜなのか。
オフィスビルを出ると、入口のカフェからはクリスマスソングが流れていた。
(このショートショートは2023 Advent Calendar 2023の11日目として書きました。いつも主催の上、声をかけてくださる@taizoooさんに感謝します。前日はbrowneyesさん、明日はnagatafaさんです。同カレンダーには2022年に「2022年と、AI戦争の歴史」を、2021年に「2021年よ、さようなら」を、2020年に「2020年のタイムマシン」を、2019年に「インターネットおじさんの2019年」と、毎年その年っぽいショートショートを書いています。また、2018年には「2018年のダンシング・ヒーロー」を、2017年には「2017年、ビジネスパーソンはポコニャンを読む」を書きました)
2023/10/11 - 2023/12/10
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
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