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どろどろ

 マッチーが結婚するというので、新年早々からちゃんとしたスーツを着た。マッチーは新卒で働いていた食品会社の同期だ。十数人いた同期の中で東京出身でなかったのは私、マッチー、翔子の三人だけ。入社前の内定式ですぐに仲良くなり、入社してからも東京出身者たちへの反発でなんとなく団結して、いつも一緒につるんでいた。

 

 その会社に就職が決まった時は、全国でCMをやっているような有名企業だったので、地元の両親や親戚はたいへん喜んでくれた。私は激務にめげて二年ほどで辞めてしまったけれども、マッチーはまだ働いている。当時の新卒はまず外回りの営業をさせられる研修があって、マッチーも私もみんなスーツを着て、先輩についてあちこちを歩き回ったものだった。久々にスーツを着ると、そんなことを思い出す。

 

 マッチーは同期の中でも背が高くてスタイルが良く、特にスーツが似合っていた。どこのブランドの生地が良いとか縫製が良いとか言っていて、言われてみると彼のスーツは、駅前の紳士服屋で言われるがまま買った私のスーツよりは確かに高品質に見えた。地方出身で似たような境遇だと思っていたけれど、どうやら東北の名家の出身らしい。今日まで本人に確認したことはなかったから、本当かは分からないが。

 

 他方、私は関西のなにもないところから出てきて、就職してからも同じような安物のスーツを何着か買った。後に全然違う業種に転職してからは、それらを着る機会もなくなって、今日まで箪笥のこやしであった。

 

 マッチーと翔子が付き合いはじめたのは就職して二年目に入ったころ。それまでも、それからも、私達は仕事あがりにしょっちゅう三人で集まって飲み歩いていたが、飲み終わって解散するとき、散り散りに別れていくのではなく、私だけが別の方向へと別れるようになった。「じゃあまた明日」というマッチー、無言で私に手を振る翔子。会社が激務なせいか、社内恋愛、社内結婚、社内不倫は日常茶飯事だった。

 

 二人が付き合いはじめた年の大晦日、翔子の家にみんなで集まって年を越そうということになった。マッチーが提案したのだ。翔子が住む小さなマンションの裏はすぐ山があって、その一面が広大な墓地になっており、地元では有名な心霊スポットだという。インターネットにある肝試し愛好家のコミュニティでも、都心の中では最高の穴場だと絶賛されているらしい。だからそこで肝試しをしたら面白いじゃんとマッチーは言うのだ。大晦日の夜に。

 

「あの家はさ、ベランダに出たらすぐそこが墓地だから、ムードもなにもないわけ。だったらせめて、みんなで行ってみたいなと思って」とマッチーは言う。時々、そういう子供っぽいことをやりたがるタイプだった。

 

 彼に言われるまでもなく、私は翔子の家のことはよく知っていた。その年の夏休み、マッチーが東北の家族と長く南米へ旅行に行っていたころ、私は翔子の家に何度か泊まったことがあったから。三人でいるときも、二人でいるときも、翔子は変わらずあまり喋らなかった。

 

 大晦日、日が暮れる前に駅前に集まると、マッチーと翔子のほかに、小柄な女性がいた。マッチーが最近知り合った友達だという。「肝試しは二人ずつペアのほうがいいかなと思って」と彼は言った。私はどうもと挨拶をしたが、高梨さんというその女性は私を値踏みするように見て、小さく頷いただけだった。マッチーの友人ということで、同じような体裁の人間を期待していたのかもしれない。あるいは、マッチーのことを狙っていたのに、別の男とペアにされて静かに憤慨していたのかもしれない。

 

 駅前のスーパーで酒とつまみを買って、翔子の家に辿りついた。いつも通り整理整頓の行き届いた部屋だったが、私は初めて来たかのように振る舞った。紅白歌合戦が早くも始まっていたが、外が暗くなると、さっそく墓地を歩いて見ようとマッチーは言った。私は早々にビールを二缶あけて億劫な気持ちだったし、翔子と高梨さんも肝試しに熱心な風には見えなかったが、誰も正面からマッチーに反対はしなかった。マッチーに言われるまま、私たちはのそのそと準備をした。

 

 家の前でマッチーが私にジャンケンで勝ち、彼と翔子が先を行くことになった。ペアは何も言わずに決められた。ネットの肝試し愛好家が配布しているという、おすすめルートつきの地図をコンビニで印刷した。墓地の前まで歩いてみると、墓石が山の斜面にびっしり並んでいるのが見えた。墓は暗がりの奥まで広がって、どこまで歩けばいいのか分からなかった。

 

「じゃあ、先に行ってくるわ」とマッチーは言い、翔子は私に無言で手を振った。マッチーは百均で買った懐中電灯を片手に、もう片手で翔子の手を握り、歩いて行ったかと思うと、すぐ闇の中に消えた。

 

 高梨さんはそうした一連の過程を黙って見ていた。彼女も先程チューハイを一本開けていたはずだが、特に雰囲気は変わらないまま、ただ今ここにいることの不条理を感じているように見えた。五分待ってから歩きはじめるようマッチーに言われていたが、そのあいだ話すことが思い浮かばず、待ち時間がずいぶん長く感じた。風のない静かな夜だったが、ダウンジャケットを着ても寒かった。

 

 先に口を開いたのは高梨さんだった。「翔子さん、狙ってるの」と彼女は言った。いや、と私は小さく答えた。「というか、付き合ってたりするの。もう付き合って別れたとか」彼女はさらに言った。私は答えなかった。答えなかったというのが答えだった。

 

 ようやく五分が経ち、私達は早足で歩きはじめた。墓地の階段を歩くとき、彼女が手を握ってきた。「私、そういうのすぐに分かるから」と彼女は言った。「というか、普通の人間であればすぐに分かることを、まったく気付かないというのが本当にバカだから」そうかもしれない、と私は思った。でも高梨さんも、マッチーに彼女がいるとは気付かなかったのではないだろうか。

 

 階段はすぐただの坂道になり、ところどころぬかるんだ道を、ネットの愛好家が言うおすすめルートの通りに歩いた。マッチーたちの姿は見えなかった。他の肝試し愛好家も、大晦日は家にいるらしかった。

 

 十五分ほど墓地と山道をあちこちに歩き、ようやく地図のいう出口まで辿りついた。そのまま翔子のマンションまで戻ったが、マッチーも翔子もいなかった。部屋に入れず、玄関の前で待った。電話をしても繋がらず、さらに十分ほど待っても帰ってこない。「私、帰るね」と高梨さんは言った。「それなりに楽しかったから」と彼女はそう言った。良かった、と私は答えた。本心だったのか、社交辞令なのか、そういうのが分からない自分には今でも分からない。特に連絡先の交換をしたわけでもなく、彼女とはそれ以来会っていない。

 

 さらに三十分くらいして、私もさすがに帰ろうとしたところで、マッチーが戻ってきた。顔は青く、服は泥だらけだ。「翔子、見なかったか」とマッチーは言った。いや、そもそもどこにいたんだ、と私は言った。「途中まで一緒だったのだけど、はぐれてしまった。電話も繋がらない」マッチーは言った。そして玄関のノブを掴み、がちゃがちゃと回した。「家にも入れない。財布も置いたままなのに」マッチーは玄関にもたれたまま、うなだれた。

 

「俺のこと、なんか言ってたか? 翔子がこのごろおかしかったりは?」マッチーは言った。わからない、何も思い浮かばない、と私は答えた。自分の荷物を確認したが、翔子の部屋に置いてきたものはなにもないようだった。年を越すくらいまで待ったが、翔子は戻らなかった。警察に電話をするというマッチーを残して、私は帰った。

 

 そのあと私は会社を辞め、マッチーと会うこともなくなった。他の同期に聞いた話だと、翔子は一年後くらいに戻ってきたが、会社には戻らなかったという。

 

 マッチーの結婚式場は新宿の高級ホテルで、ウェイティングルームまで眩しいほどに照明が照らされていた。私の古びた安スーツはますますみすぼらしく見えた。ただ、会社の同期や先輩がたくさん招待されていて、その中に簡単にまぎれることはできた。懐しい人達と、近況を話しあった。招待状を持っていないことなど誰も気付かないようだった。

 

 もしかすると翔子がいるのではと思ったが、いなかった。結婚相手が高梨さんだったりしないかとも思ったが、違った。話によれば、東北のどこかの政治家の孫だと言う。私は大勢の招待客たちと一緒に、流れるままチャペルに案内され、その端っこでマッチーと知らない女性が永遠の誓いを交わすのを見た。チャペルから出ていく時、みんなに花弁をかけられているマッチーと視線が合ったような気がしたが、彼の表情は特に変わらなかったので、勘違いかもしれない。

 

2024/01/19 - 2024/01/20

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この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。

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