ゴールデンウィークを過ぎたころから夜うまく眠れなくなった。生まれてこのかた寝付きの良いのが自慢だったが、今ではベッドに入って目を閉じても朝にならない。はじめこそ眠れないとはこういうことなのかと新鮮に思ったが、それからも眠れない日々が続くとさすがに困ってしまった。
はじめて眠れなくなった夜、時計を何度も確認しては時間が無為に過ぎていくのを見守った。いっそこのまま朝になってくれれば諦めがつくかもしれないと思ったが、不思議なことに時間を気にするようになると進む時間は遅くなるのだ。あまりに時間がのろのろと進みついに止まってしまうのではないかと思ったとき、私は仕方なく起き上がってリビングに戻り冷蔵庫から缶ビールを取り出した。しばらくビールを片手に読書などしていたら時間はまた進みだした。
その時に読んでいたのは海外の推理小説で、犯人が見つかったはずなのに新たな殺人が起きて、探偵がすべてを考え直すところだった。近年で一番の傑作という売り文句に誘われて手に取ったが、頭には全く入ってこなかった。眠いかどうかで言えば十分に眠い。私はベッドに戻ったが、読書中もベッドにいるあいだも考えることといえば急に眠れなくなったのはなぜかということだけだった。眠れない眠れないと悩み続けて、気付いたときには朝になっていた。私は少しでも眠ったのだろうか。自分でも分からない。
朝、ダイニングテーブルに残ったビールの空き缶を見つけて、妻は「どうしたの」と言った。「ごめんなんだか眠れなくて」と私は言った。「そう」と妻は答えた。
次の夜も同じだった。ベッドに横になりながら、去年の末にドラム式の洗濯機が壊れて全く乾燥しなくなったことを思い出した。今の私は眠る機能が壊れた人間だ。洗濯機は修理をしてもらおうとメーカーに電話をしたが、保証はとうの昔に切れており、直すにはびっくりするほどの代金になるというので、有楽町のビックカメラで最新モデルに買い替えた。古い洗濯機は乾燥以外はちゃんと動いていたのに、新しい洗濯機を配送してくれた業者に頼んで引き取ってもらったのだ。しかし私の睡眠機能は修理したり買い替えたりはできない。私が壊れたら妻は不倫相手と堂々と付き合いはじめるだろうし、上司は別の部下を雇うだろう。そんなことを考えると今更ながらに不安になった。その日もビールを飲んで気付いたら朝になっていた。
そんな日々が数日続き、そのあいだまるで寝ていないか、寝ていたとしても朝までのほんのわずかの時間だけだったはずだが、日中の生活は意外と普通に続いた。妻の作る朝ごはんを食べ、電車に乗り、オフィスへ行き、仕事をして、昼ごはんを食べ、残業をして、帰宅して、妻が作っておいた晩ごはんを食べたり、用意がないときはコンビニの弁当を買って食べた。ただ睡眠の機能だけが欠落している。乾燥だけ出来なかった洗濯機みたいに。
不眠症という概念は遠い国の習慣のように知っていた。ただ自分の身にふりかかるとは思っていなかった。自分の身にふりかかったこの問題を不眠症と呼んで良いのかさえ未だ確信がなかった。これはなにか偶発的に起きた出来事でしかなく、いわゆる本物の不眠症ではないのではないかとどこかで信じていた。
しかし眠れない日々は続いた。ベッドに入ることさえ馬鹿らしくなってきた。どうせそのうち起き上がることを分かっているくせに形だけ横になる意味がどこにある。それでもかつての就寝時間にはベッドに入った。自分はまだふつうに眠ることを諦めていないと示すように。しかし眠れないことは分かっていた。だんだん起き上がってビールへ手を伸ばすまでの時間が短くなった。時計を見ることはやめたので実際にどうだったのかは分からない。
何日目かは分からないが、冷蔵庫のビールが切れた。コンビニで弁当を買うときに一緒に買っておけば良かった。今やなぜか眠れぬ夜にビールを飲むこと新しい習慣であった。落ち着いて考えれば酒が体に良いはずはないし、眠れぬ日々が続いている以上、不眠症への効果もない。しかし酒を飲まなければもっとひどいことが起きると自分は考えているらしかった。そもそも今の自分の頭でなにかを考えることなどできるのだろうか。
私は少し悩んでからコンビニへ買い出しに出ることにした。いつものルーティンを守ることで生活を続けようと試みた。眠れないというルーティンを守る理由は自分でも良く分からなかった。ただビールを飲む口実を探していたのかもしれなかった。
静かな、肌寒いくらいの夜だった。最寄りのコンビニまではすぐだったがビールを買って帰るだけでは惜しい静かさがあった。私は自然とコンビニを通りすぎて歩き続けた。ただもう少しぶらぶらしたかった。比較的明るい道を選んで宛もなく歩いた。まだ五分と経っていないはずなのに、見覚えのないところを歩いていた。日中であれば知った場所だと分かっただろうか。それとも家のすぐ近くにこれほど知らない場所があるものだろうか。
どちらの方角に向かっているかもよく分からないまま小さな橋を渡ると、いつの間にか海辺にいた。海といっても波一つない、静かな東京湾である。海運会社の倉庫が並び、その一角がちょっとした公園になっている。カップルがベンチに並んで座り、背の高い男が小さな犬を散歩させていた。犬は私のほうへ寄ってくると、ハッハッと息を荒げた。暗がりのせいで、こちらを好意的に見ているのか威嚇しているのかは分からなかった。
「すみません」と背の高い飼い主は言った。
「大丈夫ですよ」と私は言った。「夜中の散歩は大変ですね」
「この子が不眠症でね」と飼い主は言った。「夜、まったく寝てくれなくて。日中、僕が仕事に行っているあいだに寝ているのかもしれないですが」
「なるほど」と私は言った。
「カメラを買って家に置こうと思うんです。それでこの子を監視して、日中寝てたならただの昼夜逆転ですし、起きていたなら本当の不眠症だから、病院に連れて行かないと」
犬はそのあいだもハッハッとこちらを見ていた。顔色は分からない。
それから私は夜の散歩が日課になった。雨の日は傘を差して歩いた。ベンチのカップルは何度か見かけるうち、どちらも中年だと分かった。道中、すごいスピードでランニングをする若い男女とすれ違うこともあった。そして不眠症の犬とその飼い主には毎晩出会った。犬はこちらに気がついて近付いてくることもあったが、飼い主とは会釈をする程度で二度目以降は話をしなかった。私は公園まで辿りつくと、ただ犬を見て、家に戻るのだった。
そんな日々が何日か何週間か続いた。ビールを飲むのはやめたが、私は相変わらず眠れなかった。人間はこうして何日も眠らずに生きて行けるものなのだろうか。それとも私が眠っていないと思い込んでいるだけなのだろうか。ベッドに横になる時間はあったし、公園から戻って朝になるまで記憶の曖昧な瞬間はあって、それは眠っていたとも言えるのかもしれないが、自分の知っている睡眠とはまったく異なるものだった。
そしてある夜、私はいつもの公園でいつもの犬の飼い主と会った。背の高い男が一人で歩いており、こちらに気がつくと手を振った。犬はいなかった。
「犬はどうしましたか」私は言った。
「死にました」男は言った。「昨日の帰り、ちょっと眼を離した隙に飛び出して、橋から落ちて流されて行ったんです」
「なるほど」と私は言った。
「あなたにはこのことを伝えておかなければいけないと思って」男は言った。「明日から夜の散歩はやめますから」
「ありがとうございます」と私は言った。
翌朝、私は何も食べずに家を出て電車に乗り、オフィスに着くと、上司を見かけた瞬間、その顔面にノートパソコンを叩きつけた。私はそのまま帰宅して、気の済むまで眠った。
2023/06/06 - 2023/08/12
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
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