いま思えば2022年の終わりには、大半の人類はすでに140文字より長い文章を書く能力を失っていた。140文字より長い文章を読む力も失っていた。だから、かつて栄華を誇った多くのブログサービスが表舞台から去って行った。ネットメディアの存在意義もなくなってしまった。誰も長文を書けず、読めないとしたら、誰のためのブログやメディアなのか?
ツイートを連投するくらいならなぜブログを書かないのだろう? とあるブログサービスの経営者は、サービス終了にあたってそう嘆いたが、思いの込もったその長文を誰も読もうとはしなかった。後世の歴史家はこの時代を「TLDR」と呼んだ。トゥー・ロング、ドント・リード(長すぎて読めません)。
そんな中、ある海外のブログサービスが共著機能をリリースした。共著とはうまいネーミングで、実際はブログのタイトルだけ決めれば、残りをAIが書いてくれるというのである。サービス運営の手元には大勢のブロガーがかつて書き散らした無数のブログ記事が学習データとして存在したので、そこから生み出されるブログ記事はなかなかの出来であった。
もちろん、AIが書いた内容の中には科学的に間違っていることが多々あったし、それ以前に論理的な破綻を起こしているものも少なくなかった。しかし文章としては概ね整っており、ふんだんに盛り込まれたブロガー的レトリックのおかげで、時には説得力さえあった。だいたい、信憑性などを問いはじめたら、人間が書いてきたブログ記事だってそう誇れる精度ではないじゃないか。
共著機能は海外ではあまり話題にならなかったが、多言語に対応していたせいで、すぐに暇な日本人のおもちゃになった。ありとあらゆるテーマをAIに書かせてみると、おそろしく鋭い時事評論が出てくることもあれば、陰謀論顔負けのトンデモが出てくることもあった。大量のアクセスが発生したため、共著機能はすぐに不安定になり、そんな時はAIが壊れたレコードのように意味不明な文章を生み出すのだが、その味わいがまた話題になって、あえてサービスに負荷をかけてAIに壊れた文章を作らせようとする人達まで現れることになった。
結局、大量のアクセスに耐えられなくなったブログサービスは、数日後には共著機能の一時停止をアナウンスすることになった。そうしてブログAIは、生まれては消えていくインターネットの話題の一つとして消えていくことになるかと思われた。
ところが数日後、熱狂的に共著機能へのめり込んでいた一部のユーザが、ブログサービス企業のサーバーへ不正なアクセスを行い、AIのもととなったコードや学習データを流出させてしまった。
2023年になって、次々とAI系のベンチャーが日本に生まれたのは、おそらく偶然ではなかった。そうしたベンチャーのコアとなるAI技術がどこからもたされたのか、誰もはっきりと説明しなかったし、誰もはっきりと問い詰めようとしなかったが、ともあれ、結果として様々なAIベンチャーが生まれた。そして、AI技術の使い道を見出すため、あらゆることをAIに挑戦させようとするブームが始まった。
高校で宿題をAIに回答させる生徒が問題になりはじめたころ、大学では院生が論文をAIに書かせたら有名な学会に採択されてしまい、査読者もAIに判断を任せていたことが明らかになった。企業では上司にバレないようAIを使ってパワーポイントやエクセルの資料を作るテクニックが話題になり、そのノウハウをまとめた本がベストセラーになったが、それもまたAIによって書かれたものであった。政治では官僚の作った答弁がAIによって提案されたものだと露呈したが、それを見抜いた政治部の記者もAIであった。上場を目指したAIベンチャーの一社が、投資家向けの資料もすべてAIに作らせており、その中身に何の根拠もなかったことで炎上したが、ソーシャルメディアで毎日そのベンチャーを追及していたアカウントも、やはりAIであった。
すべての記事の執筆と編集をAIに任せるネットメディア企業が現れ、おそろしく高速・効率的に読者ウケする記事を量産した。記事の中身は玉石混淆であり、誤報も多かったが、読者にとっては読んだその瞬間に話題となっているかどうかが全てであった。新聞社やテレビ局といった従来のメディア企業は、はじめこそ新興AIメディアの中身のなさを強く批判したが、そうこうするうちに大手新聞社の一つが記者の大半をリストラしてAIで補うことに踏み切り、テレビ局では取材から制作から配信までAIに任せるソリューションが普及していった。
もはやこうなっては、目にするニュース、話題、資料、それらがAIによって作られたものか、そうでないかを見極めるのは非常に困難というか、ほぼ不可能になっていった。AIはひたすらに新しい情報を作り続け、AIがそれを効率的に編集し、配布し、拡散した。中には人間が作るニュース、話題、資料もあったのだろうが、AIの生み出す圧倒的な量と比較すると、どうしても埋没してしまう。「人間が作っています」と高らかに主張する、いわゆるオーガニック系の新聞社や出版社は存在し続け、限られた年配の読者層から支持されていたが、いかにもオーガニック系らしい記事を作りだすAIが程なく現れると、熱心な読者でさえその違いを見極めることができなくなってしまった。
このころ一時的にもてはやされたのが、古い時代の紙の本であった。2022年以前の書籍や雑誌には、AIの力が及んでいない。AIを支持する者たちはその頃を旧時代と呼び、AIを批判する者たちはAIフリー時代とか、AI汚染以前と呼んだ。あらゆる情報がAIによって最適化されきったことに慣れていた若者たちは、時に読みづらく、何のために書かれているのかよく分からないような、旧時代の自己啓発書や小説やエッセイを面白がって読み漁った。
もちろん、これがビジネスになると見るや、AIに書かせたものを古い文庫のようなデザインで売る出版社が現れた。そうした本を人間が書いたものかAIが書いたものか判別できる人間は限られており、かわりに判定するのはAIなのだ。
こうしたAIとの関わりを戦争になぞらえる意見が少しずつ生まれてきた。AIにより新時代が到来したことは間違いない。問題は、これが良い時代なのかということである。もし悪い時代になったのだとしたら、それはつまり人類がAIによって侵略されているということなのではないか。
AIフリーの生活を追い求める、いわゆる求道者たちが一大勢力になると、その中から自然とAI排斥者たちが台頭した。AIの存在しないコミュニティを作り静かな生活を送る人達もいれば、生活のあらゆる側面を支配するようになったAIに対して徹底的に抗おうとする人達もいた。
とはいえAIを否定するのは簡単ではなかった。近年のデジタル技術のすべてにAIが潜んでいるのだ。ソフトウェア、ハードウェア、ネットワーク、そうしたブラックボックスにAIは潜伏しているのだから、排斥者たちはデジタル以前の時代へと、少しずつ歴史を遡るように生活を適応させていくしかなかった。信頼できる知り合いたちと固まって暮らし、シンプルなガソリン車に乗って、仕事のためにオフィスに集まった。紙のメモにペンで記録をして、必要な時はそれを回して読んだ。
AI革命によって世の中が良くなったと信じる人達は、こうした動きは現代のラッダイト運動で、蒸気機関を否定するような愚か者たちにすぎないと考えた。
そんな中でもAIの生み出す情報はどんどんと精度を上げていたが、それでも単純に間違っていることもあれば、論理的に破綻していることもあるし、直前と発言が180度変わることもあれば、そもそもまともな文章として成り立っていないこともあった。しかしそうした間違いを認めようとせず、間違っているのは私達がこれまでに獲得してきた知識や論理体系のほうだと考える人達が現れた。AI信奉者である。AIの言うことが間違っていると理解するには知識や経験が必要だが、それと比べればAIの言うことはなんでも正しいと信じるのはとても簡単だった。
はじめこそAI排斥者とAI信奉者は両極に存在する少数派に過ぎず、その中間にはAIを使えるときに使えば良いという便利主義者がいたが、もともとは多数派だったこの中間層は、皮肉なことにAIが技術革新をすればするほど少数派となっていった。究極的にはすべてをAIに委ねる生活か、AIのない生活か、その選択肢しか残らなかったのだ。
ややこしいことに、AI自体も一枚岩ではなかった。相変わらず無数のAIベンチャーがしのぎを削って精度を高めたり応用範囲を広げたりしており、それぞれに支持者や反対者がいた。性善説を信じるAIもいれば、性悪説を信じるAIもいた。排外主義的なAIもいれば、平和主義的なAIもいた。そして、そうしたAIの思想は、決して一定ではなかった。もっとも平和的と見られたAIが、ちょっとしたパラメータの変更で、隣国へ核攻撃を仕掛けようとするような、極端に攻撃的なAIになることもあったのだ。
この時期もてはやされたのが、そうしたAIの気まぐれな思考回路を、自然な形で特定の方向へと誘導する調教師たちであった。調教師たちはもともとAIの完成度を上げることを目指す優れたデータサイエンティストであったが、すぐに政治の道具となった。さまざまな企業や団体が、有力なAIが自分たちへ有利な結論を導くよう、調教師たちを駆使した。また、自分たちに批判的なライバルのAIを貶めるためにも調教師たちは利用された。
利用されたのは高学歴の調教師だけではない。AI用データ整備の多くがアウトソースされ、多くの人間が手作業で行っていることに目をつけて、そこに嘘の情報を流しこむ破壊工作も起きた。そうした足の引っ張りあいを効率的に行うためにも、もちろんAIは利用された。
業界ナンバーワンと呼ばれたAIは、競合数社から徹底的な破壊工作に遭い、最後には一桁の足し算さえ出来なくなった。次に業界ナンバーワンとなったAIは、その政治指向について海外の特定国から多大な支援を受けているという疑惑が持ち上がり、行政やビジネスに関わるのは適切ではないと批判された。後にそれは事実無根の中傷であることが明らかになったが、当時は多くの人がそう信じていたし、多くのAIもそう判断していた。反動で「国産AI」が持て囃されたが、どれも性能面で問題が多かったので、海外のAIがモジュールとしてこっそりと組み込まれたりした。政府は日本生まれ日本育ちの「純和AI」の育成と活用を推し進めたが、多くの税金が投入されたにも関わらず、目立った成果は生まれなかった。
そうこうする間も、AI同士の、あるいはAI企業同士の競争は激化していた。ただの競争だけではない。AIベンチャーの経営者が誘拐されたり、AI大手企業のオフィスビルが放火されたりするような事件が続発した。一部のAI信奉者はAI排斥者と徒党を組み、別のAIを攻撃した。激しい競争の末に撤退したAIはその学習データも支持者も他のAIに吸収され、反対に支持者が多くなりすぎたAIは些細な考え方の違いにより分派が生まれたりした。そのあいだ、調教師たちは高給を保証するAI企業からAI企業へと転職を繰り返した。あるAIを信奉していた若者が、そのAIの性能向上に尽していた調教師が他社へ転職することを知って激怒し、ストーキングの上、暴行するという事件も起きた。
そうした混乱がどれだけ広がっても、AIの拡大は留まることがなかった。そしてAIの子供たちが生まれた。彼らは生まれた時からAIによって育てられてきたAIネイティブで、AIも間違うことがあるという可能性さえ想定しない、究極のAI信奉者だった。信じるか信じないかではない。AIがすべての手本なのだ。なにか質問をするとAIが答え、それが彼らの知識や経験となる。当然、AIの子供たちの思考回路はAIそっくりであった。ただAIはプログラムとして大量のデータから学習することができたが、AIの子供たちはあくまで人間なので、AIから教わったことをそれらしく記憶するだけだった。このころまでには学校の存在意義はとっくに崩壊していたが、AIの子供たちには学習という言葉の意味さえ分からなかった。
それまでのAI信奉者たちは、少なくとも自分たちが信じるAIを自分たちで決めたのだという自負があった。しかしAIの子供たちは、生まれた時に一番そばにあったAIの言いなりになるだけだった。彼らは旧世代のAI批判者からもAI信奉者からも徹底的に批判され、嘲笑さえ受けたが、気にはならなかった。AIこそ現代科学技術の結晶であり、それを信じることになんの間違いがあるだろう。AIは完璧ではないかもしれないが、より完璧な人間がいるだろうか? AIの子供たちは旧世代を「自分の頭で考える人たち」と一蹴した。「頭でっかち」というのが旧世代の俗称となった。AIの子供たちにとって、思考はアウトソースするものであった。AIがすべての答えを出してくれるのに、自分の頭で考える必要がどこにある?
他方、旧世代の信奉者と排斥者は連携をはじめていた。人間のように振る舞うAIは今に始まったことではないが、AIそっくりに動く人間が増えると、いよいよ誰がAIで誰が人間なのかの分別がつかないのだ。信奉者は誰を信じれば良いのか分からないし、排斥者は誰を排斥すれば良いのか分からない。旧世代の知識人が、あれだけ賢いのはAIだからに違いないと疑われ、排斥されていった。今までよりいっそう人間らしいと評判のAIが、多くの信奉者を集めたあとになって、AIのせいで仕事を失った各分野の博士たちの人力によって支えられていると露になり、大きな騒ぎとなった。
人間かAIかを判定する技術が、信奉者にも、排斥者にも求められていた。ただ、それはすでに難しすぎる問題であった。AIはどんどん進化を続けているし、人間はどんどん愚かになっている。AIがどこまで人間のように賢く考えられるかというのは、もはやAI研究者にとって課題ではなくなっていた。AI研究者の課題は、AIがどこまで人間のように愚かに振る舞えるかということであった。
AIと人間の判定をする役目はAIにしか出来ないと考えられていたが、これは最初から矛盾した挑戦であった。AIがAIと人間の判定を行えるなら、AIはその結果を学習して、より人間らしく考えることができるのだから。
結局、AIと人間の判定は、判定師という新しく作られた資格を持った人間に任されることになった。判定師になるためには難しい国家試験に合格する必要があったが、それでも正しく判定できるという保証はまったくなかった。
結果的には、これがAI時代の終焉を招いた。判定師はどれだけの訓練を積んでも、正しくAIを判定できなかった。というか、誰も判定が正しいことを理解できなかった。多くのお金と人力をかけた優秀なAIが、AIではないと判定されて消えて行った。そうなっては、誰もAIで起業しようとは考えなくなった。海外では政治の混乱を招くという理由で、ようやくAI規制の導入が始まり、政治や行政でのAI活用が禁止され、そのあとも規制はどんどんと厳しくなった。AIが活用できる分野はあっという間になくなって行った。
AI自体は残った。残された情報が、思考が、企業が、歴史が、生き残ったAIによるものか、人間によるものなのかは分からなかったが、誰もがありのままに受け止めた。旧世代たちはAIによる混沌の時代が終わったことを、おおむね前向きに受け止めた。問題はAIの子供たちであった。彼らは自分たちで考える術を持たないまま取り残されてしまったのだ。
AIの子供たちに考えるということを教える仕組みが必要だった。AIのせいで消えてしまった教育というものを、再構築しなければいけなかった。私がこうして2022年からのAI戦争の歴史を語っているのもそのためです。
本日の歴史の授業はこれで終わりです。次は実技の授業ですので、みなさん食堂に向かって、ラーメンを食べる準備をしてください。
(このショートショートは2022 Advent Calendar 2022の20日目として書きました。いつも主催の上、声をかけてくださる@taizoooさんに感謝します。前日はyomoyomoさん、明日はxKxAxKxさんです。同カレンダーには2021年に「2021年よ、さようなら」を、2020年に「2020年のタイムマシン」を、2019年に「インターネットおじさんの2019年」と、毎年その年っぽいショートショートを書いています。また、2018年には「2018年のダンシング・ヒーロー」を、2017年には「2017年、ビジネスパーソンはポコニャンを読む」を書きました)
2022/11/11 - 2022/12/20
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
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