朝起きてぼんやりとスマホを見ていたら、急上昇トレンドの一つに恋人の名前があった。森下勤。いや、同姓同名の別人かもしれない。どこにでもいるような、平凡な名前だから。
名前をタップする。すると彼の顔写真が現れる。その下には、若手デザイナーの森下勤、と書いてある。これは間違いなく私の彼氏である。一気に目が覚めた。なにか賞でも取ったか、それとも何か炎上でもしたのか。
もちろん、若手のデザイナーが賞を一つや二つとったところで日本全体のトレンドワードになったりしない。彼は炎上していた。深夜のうちに、なにかソーシャルメディアでいらないことを言ったらしい。投稿はすでに消されていたが、スクリーンショットが出回っていて、しかし改変されたりネタにされたりしているものも多く、どれが本当に彼の発言だったのかは分からないが、どうも総合的に判断すると「若いうちは激務でも文句を言わずに働け」というようなことを言って、多くのネット民の反感を買い、おまけに当初はネット民の批判に反論して、数時間後に自分の投稿を消して全面撤退するまで、無謀なバトルを続けていたらしい。
友人たちからメッセージが届きはじめる。「彼、炎上してない?」
「そうみたい」と私は答える。
本人にもメッセージを送る。「大丈夫?」返事はない。
疲れて寝ているか、まだ どこかでバトルを続けているのか。
「普段からいらないこと言ってたよね」と友人の一人が私に告げる。
「いつかこうなりそうな気がしてた」と別の友人。誰も彼のフォローをしてくれない。
そう、いつかこうなるような気はしていた。一年前に知り合った時は、控え目で、どちらかというと自信のなさそうな人だった。それが、親戚がやっているという和菓子屋のパッケージを格安で請け負ったら、たまたまテレビで取り上げられて一躍人気商品になり、ヒット商品の仕掛け人としてちょっとしたメディアに取り上げられるようになった。
それから、友人以外は誰もフォローしていなかった彼のソーシャルメディアにフォロワーが増えはじめた。すると彼はラーメン屋の写真を投稿するのをやめ、かわりに少しづつ仕事の流儀みたいないらないことを書きはじめるようになった。それがまた話題になって、ちょっと名の知れた企業からも仕事の依頼が来るようになり、それをまたソーシャルメディアでアピールして、またフォロワーが増える。
幸い、彼は私の前では謙虚なままで、ネットで見せるような偉そうな態度をとることはなかった。少し仕事が順調だからといって私への態度を変えるのはみっともないと、彼自身も分かっているようだった。でも、もしかしたらそれが抑圧になって、ネットで誰とも知らない人達に向けて自慢をしているのかもしれない。
どこかで一言、言ってあげるべきだったのかもしれない。ネットでイキってるのダサいよ、と。そう言ったら彼は納得しただろうか。それとも反論してきただろうか。
彼とは連絡がとれないまま、私は仕事へ向かった。いつも通りの満員電車に乗り、いつも通りのつまらない会議に出て、資料を作る。恋人が炎上していても、私の生活は変わらない。
昼休み、食堂で同僚たちとごはんを食べる。
「彼、炎上してるね」と同僚の一人がさっそく話題に挙げる。はっきりとは言わないけれど。楽しんでいる様子である。私だって、見ず知らずの人間が不用意な発言で炎上していたら、野次馬根性で楽しむだろう。ましてや知ってる人間だったら、ますます面白いに違いない。
彼は仕事柄、どんな人間関係が仕事に繋がるか分からないと、色々な人に会いたがった。おかげで彼は私の友人や同僚のことをだいたい知っている。私の友人や同僚も彼のことをよく知っている。会うと謙虚だが、ネットではイキってるデザイナーの男。
食事を終えて、デスクに戻る途中、別の同僚が声をかけてくる。「彼氏、まだバトルしてるみたいね」
見ると、彼は消したはずの投稿をわざわざ復活させて、持論を再展開していた。もちろん、さらなる批判が集まり、彼はいちいちそれに反論している。
彼に送ったメッセージは既読がつかないまま。「ネットやめなよ」と新しくメッセージを送るが、こちらにも既読がつく様子はない。
誰かにアカウントを乗っ取られたりしていないかな、と私は考える。あるいは、誰かにアカウントを乗っ取られたことにできないか。
でも、彼がネットでこういうことを言いそうな人間であることを、誰よりも私が知っている。
午後も仕事は続く。取引先にメールしたはずの資料が届いておらず、先方から怒りの電話がかかってくる。半時間ほどかけてなだめすかし、ようやく電話を切ると、部署の後輩から「なんか炎上してますね」と言われた。一瞬混乱するが、どうやら彼のことではなく、私のことだったらしい。
「これくらい大丈夫」と私は言う。
一方そのころ、彼の炎上はメディアに取り上げられはじめる。「若者は働け、 気鋭デザイナーが仕事論で炎上」「若手ほど仕事を優先すべき? デザイナーの発言が話題」少し前まで仕事一つ探すのに苦労していた男が、今や日本で一番の有名人である。メディアでの記事が拡散されると、彼の名前が再びトレンドを席巻し、炎上はますます広がっていく。
彼の個人情報も特定されていく。自宅でたこ焼きパーティをした時の写真から、すでに自宅は割り出されている。ベランダの向こうにタワーマンションが見えていたせいらしい。
高校の卒業文集を誰かが載せている。初めて見たが、彼は当時からデザイナーになりたかったと書いてある。何人かのインターネッターが感心している。「炎上してるけど、ちゃんと夢を叶えてるのは偉いよな」
私が心配しているのは、彼とのツーショットの写真をどこかに上げていなかったかだ。たぶんなかったはずだけど、彼が何も言わずにアップロードしている可能性はある。そういうデリカシーが微妙に欠けていることがあるから。
とりあえず私は自分の各種アカウントを非公開にする。
仕事終わりに彼に電話をしてみるが、繋がらない。呼び出し音さえ鳴らない。電池が切れたか、電源を切ったか。
満員電車に乗って家へ帰る途中、実家の母親からメールが届く。「森下さん、ニュースになってない?」夕方のテレビ番組でも取り上げられたらしい。
「大丈夫」とだけ私は返事をする。
自炊をする気にはなれず、駅前のコンビニでうどんを買い、家で食べ、お風呂に入る。スマホを確認すると、彼の名前はまだトレンドにいる。彼はまた投稿を消し、ネットバトルは終わったようだが、ネットメディアやテレビが取り上げたせいで、今になって話題を知る人達がいる。もう勝敗は決している。だから一層、彼は叩かれている。知らない人達に罵倒されている彼。
いよいよ寝ようかと思った時、彼から電話がかかってくる。
「ごめんね、遅くに」彼は言う。「色々あって」
「色々あったのは知ってる」
「とりあえず大丈夫だってことは伝えたくて」
「良かった」私は答える。
「ところでなんだけど」彼は言う。「今回のことで、僕のこと取材したいって言ってくれてるYouTuberがいて、コラボすることになったんだけど、良かったら一緒に出演しない? 僕がふだんどういう生活してるかとか、コメントしてくれたら嬉しいなと思って。ちょっと急な話で、収録は明日の朝になりそうだから、お仕事を休んでもらうことになっちゃうんだけど」
翌朝、森下勤の名前はようやくトレンドから消える。男性アイドルが人気ドラマで共演した女優二人と二股していた話が週刊誌で暴露され、話題はすべてそのことでもちきりになる。
おかげで、職場でも誰も彼の話をしなくなる。
仕事帰り、後輩から声をかけられる。「間違ってたらすみません、今日このYouTuberとコラボ動画出してるデザイナーって、彼氏さんですよね? 昨日炎上してたのに、前向きですごいなと思って」
「うーん」私は答える。「もう彼氏じゃないから」
2025/10/14 - 2025/11/02
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
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