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想像の喫茶店

祖父母は喫茶店を営んでいた。店は駅前の商店街から一本外れた路地にあり、二人はその二階に長く住んだ。私の家から近く、父母は共働きだったので、小学生のころは学校が終わるといつもまっすぐ喫茶店に向かった。祖父の作ってくれたクリームソーダを飲みながら、店の低いテーブルで算数や漢字の宿題を片付けた。いつもジャズが流れていたが、なにかこだわりがあったのか、それともただ有線を流していたのか。

 

祖父はコーヒーのマニアで、店の味にも自信を持っていた。しかし店を支えていたのは、人の話を聞くのが抜群にうまい祖母だった。祖母が打つ相槌は、心から相手のことを考えている人間だけが伝える魅力があり、来客は気付かぬうちに自分の身のまわりに起きたことを洗いざらい祖母に話してしまうのだった。

 

自然と祖母のもとには街のいろいろな噂話が集まって、そうすると常連客はまたその噂話を聞きつけようと店にやって来る。おかげで私は、誰かの進学や上京・就職、どこかの嫁姑の不和、避けられたはずの借金、立ち退き、浮気と不倫、相続の諍い、そうした小学生が知る必要のない話をたくさん耳にした。

 

店は毎日大繁盛というわけではなかったが、いつでもそれなりに客はいた。コーヒーやオレンジジュースといったお気まりのドリンクのほかには大したメニューがなく、客や私が小腹が空いたといえば、祖父はさっとサンドイッチやハムエッグなんかを作ってくれた。

 

駅前にマンションが建ち始めると客足も少し増え、たまには満席になることさえあって、それからは広いローテーブルではなく、カウンターの一番奥が私のための予約席になった。祖父は気前の良い人間で、店を閉めると私を家に送る前によく商店街へ連れていき、駄菓子やマンガを買ってくれた。

 

喫茶店がどれだけ儲かっていたのかは分からない。ものすごく儲かっていたような風ではないし、ちょうど二人が質素な生活ができるくらいの儲けだったのかもしれない。いま思えば、マンションが増えて街の人口が急増するより前に、商店街近くに喫茶店兼家を建てたことが、なにより成功の鍵だったのだろうと思う。店や家が賃貸なら、話はだいぶ違ったと思う。

 

聞けば、私の父が大学へ進学して家を出たとき、それまでサラリーマンだった祖父に、コーヒーが好きなら脱サラして喫茶店でもやればと祖母が提案したという。どうせサラリーマンとして出世しそうになかったんだから、と笑うのが祖母が用意したいつものオチであった。もしかしたら、祖母は自分の能力があれば、祖父の技量はおいても、店はそれなりに繁盛させられると考えたのかもしれない。

 

喫茶店ができる前に家を出た私の父といえば、上京して化学を学んだあと、化学メーカーで働くために地元へ戻ってきて、どこかで会計士の母と出会い、結婚した。私の得意教科といえば国語くらいで、理科も算数も散々だったから、両親がどんな仕事をしていたのか、昔も今もまるで分からない。かわりに毎日のように喫茶店で時間を過ごし、てきぱきと動き回る祖母や、真剣にコーヒーを淹れる祖父を見て、これが働くということなのだと思うのだった。

 

いま思えば私はもう少し店の手伝いなどしても良かったのだろうけど、祖父母は私を一切働かせようとはしなかった。私はそれでも無邪気に、いつか自分が喫茶店を継ぐと言い、祖母は笑って喜んだが、祖父はいつも通り真面目な顔で、ちゃんとした大学に行ってちゃんとした仕事に着かないといけない、と言った。

 

中学生になると放課後は塾に通うようになり、喫茶店からは自然と足が遠のいた。ほどなく祖母は体調を崩し、店は祖父が一人できりもりしたが、予想通りというべきか客足は少しずつ途絶え、喫茶店は休業になると、祖父は急な病気で亡くなり、祖母はそれから一年ほどの入院生活を経て亡くなった。

 

私が高校に通うころには、祖父母の喫茶店兼家は売られ、解体され、低層マンションになり、一階には洒落た予約制の美容室が出来て、カーテンに遮られて中の様子さえ見えなくなった。終わってみれば、すべてがあっという間の出来事であった。

 

私は地元を離れ、大学で教員免許をとったが、それはあくまで保険で、ではなんの保険で、本当はなんの方仕事をしたいかというと、なにかは分からないが、いつも喫茶店のことを考えていた。

 

そのころ就職市場はあまり活発な状況とは言えず、疲れた私は母と電話をする中で、地元で喫茶店でもやろうかなとこぼした。すると、聞きつけた父が普段しない電話をわざわざかけてきて、いかに喫茶店経営がわりに合わない仕事かと延々と続けた。祖父はサラリーマン時代に貯めた貯金をぜんぶ使ってローンを組み、うまくいくかどうかも分からない喫茶店兼家を建てた。それは控え目に言ってもギャンブルで、祖父母はギャンブルにまあ成功したが、父はギャンブルが昔から大嫌いだった。それから私は冗談でも喫茶店のことを口にしないようにした。

 

けっきょく私はIT業界にすべりこみ、三十を前に結婚し、子供が生まれて、ときどき不動産屋の入口で店舗物件の案内を見かけるときだけ、喫茶店のことを考えた。不動産の値段は賃貸でさえどんどん上がっており、私のささやかな給与と貯金では開業にこぎつけられそうにはなかった。

 

あるとき、子供がどこかから私の祖父母が喫茶店をやっていたことを聞きつけて、店はもうないのかと聞いた。店はもうないの、誰も継がなかったから、と私は答えた。喫茶店、すごく良さそうなのに、と子供は言った。割に合わないからね、と私は言った。かわりに、やりたい仕事があったの? どうかな。先生の免許はとったんだけど。え、先生? じゃあ学校に教えに来れる? 来て欲しい? いやー、どうかな。親が先生って恥ずかしいかも。体育の橋本先生のかわりだったら嬉しいけど。

 

母は定年前になにも言わずに亡くなったが、父は長生きして、最期には多少の闘病生活があり、その中で私と二人になった時ふと、本当に喫茶店をやりたかったのか、と尋ねてきた。何気ない調子で、しかしそれは、死ぬ前に答えを確認しておきたいという質問のようだった。そうだと思う、と私はできるだけ軽い調子で言ったつもりだが、それが軽い調子に聞こえたかは分からない。

 

本人の希望を聞いてやらずに済まなかったな、おまえはまだ小さかったけれど、店を売らないという選択肢だってあったんだ、と父は言った。もう済んだことだから、と私は言った。そうか、と父は頷いて、三日後に亡くなった。

 

想像の喫茶店。毎朝、店の前を掃除するところから始まる。どれだけ手入れをしても、店の前の植え込みたちはまわりに遠慮することなく成長していく。おかげで小さな入口はさらに小さく見えて、おまけにいつもしっかりと閉じられているから、一見では何の店であるかも分からない。OPENと書かれた控え目な札が入口にかけられ、そのことに気付いてくれる人だけを中に誘おうとする。中に入ると窓側の右手に低いローテーブルが二つ、三つ。左手にはカウンターと、小さな背もたれの木製の重いスツール。窓が小さく店内はほぼいつも暗いが、夕方の一瞬だけ西日が差し込んでくる。古い建物のため夏はひんやりと涼しく、そのかわり冬は暖房を入れてもしばらく肌寒い。壁にはたくさんのドライフラワーが飾られ、店内は80年代のソウルミュージックが流れる。メニューはコーヒー、紅茶、ココア、オレンジジュースと、特別なクリームソーダ。子供にいつも好評の、自家製のプリンとチーズケーキも用意できるが、サンドイッチのレシピを教わっておけば良かったといつも思う。

 

2025/05/30 - 2025/06/15

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この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。

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