終電までには仕事を終わらせようと長いあいだパワーポイントと向き合っていたが、今になって上司から新しい指示のメールが飛んできて、諦めがついた。
やってられない、そう呟いて数時間ぶりに立ち上がり、大きく体を伸ばす。オフィスの空調は、完全に止められたわけではないのだろうが、明らかに日中より弱い。気付けばシャツにじんわりと汗がにじむ。
気分転換にコンビニへ行こう。気合いを入れ直してから残りの仕事を片付けよう。そう自分に言い聞かせる。飲み物と、なにか安物でいいからアイスクリームが欲しい。今日も残業で一日を終える自分への慰めとして。
オフィスの高層フロアからは街の夜景が一望できる。新卒としていまの会社に入社したのはもう十年前。当初はこの素晴らしい眺望に感動したものだが、今となっては仕事が終わらないことの空しさを引き立てるだけだ。
ビルの下層フロアにはフレンチレストランがあって、半年前に恋人とディナーをした。あの時も、ここほどではないが、見事な夜景だった。シャンパンと白ワインを一本ずつ開けて、彼女の誕生日をサプライズのプレゼントで祝い、デザートプレートを一緒に平らげた。
テーブルで会計を済ませ、エレベーターで仕事に戻ろうとすると、別れ際に彼女は「私と仕事とどちらが大事なの」と言った。そんなドラマみたいな台詞が現実にありえるなんて、と笑ってしまった。当時はマネージャーに昇進できるか、大事なタイミングだったというのに。恋人とはそれ以来、会っていない。
エレベーターホールまで向かうあいだ、まだ同じように働いている何人かの同僚と目が合う。互いに声をかけようとはせず、みんな仕事に取り組む姿勢を崩さない。誰もが切羽つまっている。一つには、期末が近くて仕事が忙しい。もう一つには、半月前にも大きなリストラがあって、たくさんの同僚が消えた。今期の売上進捗を考えれば、また次のリストラがすぐあってもおかしくなかった。
不思議な話だ。業績が悪くなると人が減る。仕事は回らなくなり、さらに業績が悪くなる。仕事のできない人がクビになるのだと上司はよく言う。でもこれだけ人をクビにして、そろそろ残った人達は優秀な人たちばかりなのではないだろうか。それとも、優秀な人達もこの会社ではみんなダメになっていくのだろうか。
入社した頃に憧れていた、仕事の出来る先輩たちは、リストラの合間をぬって転職して行ってしまった。先輩だけではない。同期もそうやって転職したり、リストラされたりして、一人また一人と消えて行った。最初、十人以上いた同期は、もう誰も残っていない。生き残った自分は勝者なのか、敗者なのか。
入社したころは、競合のどこよりも優秀な人が集まっていると評判だった。レアル・マドリードみたいなスーパースター揃いだと。いまも会社は十年前と同じように社員の質をアピールしているけれど、当の社員たちも、もちろん業界他社も、もはや信じていない。疑うことを知らない新卒社員だけが信じて、入社後に「かつて職場にいたすごい人の話」ばかり聞かされるのだ。
エレベーターに乗る。一階の受付はすでに閉鎖され、地下の通用口から出ないといけない。ビルにあるファミマはとっくに閉まっている。地下通路を抜けて外に出ると、風が心地良い。オフィスより涼しい空気が、汗に濡れたシャツを冷やす。
オフィスビルの周辺は飲み屋の並ぶ繁華街だ。ただ、さすがにもう時間が遅く、人はまばら。ときどき酔っぱらいの集団の騒ぐ声が聞こえたり、足下のふらついた若者がタクシーを捕まえようとしている。
道路を一本挟んで、セブンイレブンへ向かう。店内に他の客はいない。中国人の店員が退屈そうにこちらの様子を伺っている。冷凍ケースに並ぶ一番高級なバニラアイスを手に取ると、緑茶と一緒に買った。
「レシート大丈夫ですか?」と店員が尋ねてくる。
「え?」
「レシート、当たりのクーポンが出てますけど」
そう言われて、レジからこちらへ飛び出したレシートを手に取ると、確かに「麦茶一本無料」というクーポンがついている。来月から使えるらしい。
「ありがとう」そう言ってレシート兼クーポンをポケットに押し込む。なんだか無性に腹がたった。麦茶なんかいらない。麦茶がいるなんて誰が言ったんだ。いらないものばかり手に入る。
声をかけられたのは、コンビニを出てすぐのところだった。誰かに名前を呼ばれた気がして振り返ると、酔っ払ったサラリーマンが四人、仲良く横並びで道に広がり、こちらを見ている。
「おお、元気にしてたか」そのうちの一人、一番長身の男がなれなれしく声をかけてくる。職場の先輩だった人達だ。この数年でみんなリストラされた。
「元気だったか」また別の男が言う。「まだ仕事中か」
「はい、みなさんも元気そうで」
「まあ。仕事をクビになったからな」男達はどっと笑う。「でもみんな退職金をたくさんもらったし、自分たちで言うのもなんだけど、優秀で引く手数多だったからな」そう言って男達はまた笑う。だいぶアルコールが入っているらしい。
また別の男が言う。「そっちは今も続いてるんだな」
「そうですね」
「あいつの下か」男の一人が上司の名前を出す。
「そうです」
男達は笑う。「社内政治のできるやつって、だいたい仕事のできないやつなのはなんでだろうな」
そうかもしれない。一方で、社内政治のできない人間は仕事ができるとも限らないけど、と思った。口にはしなかった。
「そういえば」別の男が言う。「もうすぐ結婚するとか言ってなかったか。長く付き合ってる彼女と」
「そうですね」そう答えた。「考えています」
「マネージャーにはなったか」
「あと少しと聞いてます」
男達のうち半分が笑った。残りの半分は笑わなかった。
「俺からのアドバイスは」長身の男が言う。「働きすぎるなよ。たかが仕事だからな。さっきもそういう話をしていたんだ」
「そうします」そして、もう沢山だ、と思った。だから「みなさん、お元気そうで良かったです。また」と言って、オフィスビルのほうへ体を向き直すと、そのまま振り返らずにまっすぐ歩いた。男達はそれ以上、なにも声をかけてこなかった。あるいは、なにか声をかけてきたかもしれないが、聞こえなかった。
机に戻ると、高級バニラアイスを食べた。すでに少し溶けはじめていたせいか、あっという間に消えてなくなった。夜景は相変わらず見事だった。緑茶のペットボトルを手に取ると、せいいっぱい力を込めて、大きな窓に投げつけた。窓はドン、と鈍い音を立てたが、もちろん、ヒビ一つ入らなかった。
近くで働いていた同僚が立ち上がってこちらを見たが、なにも言ってこなかった。恋人と話をしたかった。まだ彼女が恋人でいるならば。少しだけそんなことを考えて、緑茶を拾うと、またパワーポイントに向かった。今度こそもう辞めてやる、と思いながら。
翌日のプレゼンはうまく行った。クライアントは資料の出来栄えに珍しく満足そうな表情を見せた。上司は上機嫌で、客先を出るなりこちらの肩を叩いて声をかけてきた。
「いい出来だったな。なにかあったか」
「そうですね、昨日は色々あって」私は答えた。「人に会って、色々なことを考えて」退職の話を切り出すなら今だ、と思った。
「そうか。まあ、俺の昨晩のアドバイスが良かったんだろうな」上司は言った。
「それはそうですね」と答えた。
「この出来ならもう安心だろう」上司は言った。「次の人事評価でマネージャーに推薦しておくから」
「えっ」と私は言った。「それは……ありがとうございます」
「もっと喜ぶと思っていたが」上司は言う。「それで、昨日は誰に会ったんだ? 仕事中に?」
「そうです」私は答えた。「夜中、コンビニに行く途中、幽霊を見たんです」
2024/05/23 - 2024/07/08
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
星新一賞入選のロボット子育て小話「キッドイズトイ」はAmazon Kindleにて100円で販売中。
免許更新
夕方、学校を出たところで母から電話があった。おじいちゃんが目を離したときに車で出かけて、トラブルを起こしたという。……
終議員
9月1日。夏休みの終わりと同時に、今年も終議員選挙がはじまった。……
AI不足
マッチングアプリで知り合った女性をデートへ誘い出すことに成功し、洒落たフレンチレストランでピノ・ノワールを嗜みながら、相手が控え目なのをいいことにワインの産地のうんちくを披露していたら、突然言葉が続かなくなった。……
ジェネレーティブな愛
Sに別れを切り出したとき、心のどこかで、自分はここで死ぬのかもしれないと思った。愛する人から捨てられるくらいなら殺してやる。Sは、そういう考えを抱いてもおかしくない人間だった。会社の同期として知り合い、三年ほど付き合って、うち半分くらいの時間を同棲して過ごした。たくさん楽しい思い出を作ったが、Sの難しいところも十分に理解していた。……