はじめて新幹線に乗ったのは、十九の時だった。私は浪人生で、前年とは目標を切り替え、東京の大学を受験することになった。新大阪の駅までは父が車で送ってくれた。母は地元を離れることに反対し、見送りにもこなかった。ホームにすべりこんで来た新幹線は写真で見るよりも薄汚れていて、小さく、しかし長かった。
「それじゃあ」と私が言うと父は頷き、それを合図に私は中へ入った。振り返らないようにしようと思ったが、座席に着くと父が窓のすぐ外で手を振っていた。午後の中途半端な時間だったせいか、新大阪発「のぞみ」は他に乗客がいなかった。発車まであと十分もある。中も外と変わらず、薄汚れている。これまで長い間、未来の乗り物と信じ続けすぎたのかもしれない。外に目をやると父は変わらず手を振っていたので、私はそれに応えた。
発車前になって、どたどたと乗客が乗り込んで来た。半分はサラリーマンで、残りのさらに半分は親子連れ、残りが座席に着くなり鞄から参考書を取り出すような受験生だった。誰も声を発さない。外を見ると、同じように見送りに来た親たちが列を成している。父もそこにいる。私は慌てて鞄から単語帳を取り出した。
ちょうどその時、私の隣にサラリーマンが座った。冴えない小太りの中年で、真冬だというのに汗だく。皺の多い黒いスーツに、水玉のネクタイ。片手には膨れ上がった書類鞄を持ち、もう片手には白いビニール袋を持っていた。息を切らせながら座るなり、ビニール袋から弁当と缶ビールを取り出す。正確にはカツ重とカロリーオフの発泡酒。私は目を逸らし、単語帳に集中する。
もっとも、そう簡単に集中できるなら浪人になることもなかった。新幹線が動き出すと男も箸と喉を動かし始めた。食べるというよりは飲み込む勢いだった。すぐに平らげ、男は一つ深い息を吐いた。アルコールの臭いが伝わってきて、私は顔を背ける。すると男はまたビニール袋をゴソゴソと探り、カツサンドと、先程と同じ発泡酒を取り出した。そしていずれも京都に着く前には胃袋に収めた。男は、今度は小さくゲップをした。こうして新幹線は汚れるのだろうと、形だけ単語帳を片手に持ったまま私は思った。
京都を出ると男は椅子を深く倒し、目を閉じて眠り始めた。首から上だけこちらへひねっていたので、次第に鼾を始めると、どのように顔を背けても壮大な音が私の耳へ飛び込んできた。ゴゴゴ、ゴゴゴ、ゴゴゴ。耳栓を持ってこれば良かった。グリーン車に乗ってもいいんだぞという父の申し出を受けるべきだった。鼾はいっそう大きくなり、周りも迷惑そうにこちらを見ていたが、十分ほど経ったところで不意にぴたりと止んだ。私はほっとして、今度こそと単語帳をめくる。しかし静寂は束の間、シュル、シュル、シュルという小さな音が男の喉の奥から聞こえてきた。さらに少し遅れて、その半開きの口から、白い糸がするすると出て来た。
今や私は男に釘付けだった。糸は意思を持つように男の口から真っ直ぐ天井に向かう。ゆっくりゆっくり。頭上5センチのあたりまで伸びると、今度は不意に速度を早めながら螺旋状に下降を始めた。シュルル、シュルル、と不愉快な音が車内に響いたが、さきほど鼾に白い目を向けていた他の乗客たちは、不思議と無視を決め込んでいるようでいた。サラリーマンたちは男と同じように目を閉じ、受験生たち少しでも追い込みをかけようと参考書を開いている。一人、五才くらいの子供だけが椅子から後ろに体を乗り出してこちらを興味深そうに見ていたが、すぐ母親に引き降ろされた。
糸は男の体を頭頂から順に包み始めた。糸は絶え間なく続いたので、体を包みきるまでにそれほどの時間はかからなかった。名古屋のアナウンスが聞こえる頃には、私の隣には人の体ほどの大きさの白い繭が完成していた。そして中には人の体が入っているのだ。出来上がった繭からは最早シュルシュルという音は聞こえず、ただ静かで大人しかった。名古屋に到着し、何人かが席を立って、何人かがかわりに席に着いた。繭を動かさないよう私がそっと体を起こすと、他の席にもたくさん同じような繭が見られた。残ったのは変わらず参考書に噛りつく受験生たち。私だけが右往左往している。
新幹線がさらに東へ向けて動き出した。線路がゴトゴト鳴る音だけが車内に響いている。鼾をかく者はもういない。皆、繭になってしまった。私は単語帳を開いた。どれだけ目を通しただろうか、甘い匂いがしたのでふと視線を上げると、隣の繭が茶色く変色していた。繭はさらに私の目の前でどんどん色を深め、ものの数分で真っ黒になった。そっと觝れてみると、先程までは柔らかそうに見えたのに、今は甲羅のように硬い。硬質化する段でどこかに歪みが出たのか、ミシミシという音も聞こえた。しばらく後、遂にパリ、と音を鳴らしてヒビが入った。ヒビは次第次第に広がり、男の胸元があったあたりで殼の破片が落ちた。中から整髪剤とオーデコロンの混った濃く甘い匂いが放たれる。殼の隙間から、ピンク色のヴィヴィアン・ウエストウッドのネクタイが見えた。ぶつぶつという声も聞こえる。「アイドマァ」私にはそう聞こえた。「アイドマァ、アイドマァ」と殼の中で生き物が弱々しく呟いているのだ。そうこうする間にもヒビは殼のあちこちを走り回り、パリパリという音が休まることはない。すこしの振動で、いつ殼を破って新しい生き物が誕生してもおかしくなかった。
品川に着いたので、私は降りた。追い込みに失敗したせいか、翌日の試験は全くいいところがなく、最終的に私は関西の私立大学に進学することになった。あれ以来、私は新幹線に乗っていない。いや、正確には受験の帰りも新幹線だったが、隣に座ったのはただの保険外交員だった。
2008/02/19 - 2008/02/23
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
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