youkoseki.com

三次元ポケット

 学校の裏山で右足をひねった。切り株にひっかかって、派手にこけたのだ。暑い夏休みの一日のこと。私はまだ小学生で、毎日退屈していた。ふだん遊ぶ仲間たちは故郷へ次々に帰った。団地はがらんとしている。いつもそこを満たす、子供たちの歓声がなかった。

 鍵っ子だった私は、その日も家で一人。テレビを点けたり消したり、チャンネルを回したり戻したり。お昼の主役は当時からタモリ。母が残していったコロッケを横になって食べた。

 うとうと寝てしまいそうな午後に、なんとか抵抗して裏山へ遊びに来たのだ。目的は、珍しい虫を捕まえること。それが出来れば、自由研究にでもなるのではないかしらとと思って。暇潰しと宿題を同時に済ませることが出来る名案。その頃から私は奇妙に合理的だった。

 足はずきずきと痛んだ。家でじっとしていれば良かった。私は後悔した。そこは静かな、何もない山。家から歩いて十分ほどの距離。誰もいなかった。昆虫の影さえ見当たらない。今にして思えば、虫にも住環境の問題というものがある。急激に拓かれた土地にあって、残されたのはこの山くらいのもの。薮蚊ばかりが目についた。アメンボもいたが、触れることも出来なかった。

 なんとか立ち上がってみたが、右足はまともに地面に着けられない。足先が地面に触れた瞬間、電気のような痺れが全身を走る。あるいは骨折でもしたのかもしれない。私はきっと青くなっていた。これまで骨を折ったことなど無かった。自分の中のものが壊れるなんて、とても恐ろしい。

 私はぴょんぴょんと左足で跳ねる。そしてあらためて山道のでこぼこを知る。それらは自己主張するかのように不規則で、不意につまづいてしまいそうだった。私はへなへなと座り込み、家までの道程を思い返した。いつも水溜りになっている広場を抜けると、狭い木の階段。六月、スイレンの咲く小道。それから、誰がいつかけたのか分からない、ロープのかかった一メートルほどの小さな崖。いつも行きはロープを頼りにゆっくりと登り、帰りは派手にジャンプして降りた。当時、携帯電話はもちろんなかった。私は途方に暮れた。たぶん人生で初めてのことだった。

 男と出会ったのはそんな時だった。私と同じくらいの背丈だった。それでも、その堂の入った目付きから、私はすぐに彼が大人の一員なんだと理解した。彼は縦に短いかわり、横に長かった。真っ青なジーンズの上に、大きな白いトレーナーを着込んでいる。そしてトレーナーの腹のあたりに大きなポケット。男は見るからに暑苦しそうだったが、汗一つかかずにこちらを見つめていた。そっと笑顔で。

 男は手ぶらだった。私は知っていた。手ぶらの大人はあやしい。男はその手をぶらぶらとさせながら、こちらへ向かってきた。「どうかしたかい」目の前までやって来ると、彼はようやくそう言った。甲高い、奇妙な声だった。信じてもらえないかもしれないが、私はこの男に食べられると思った。唇だけは笑顔だが、ぎょろりとした目はこちらを捉えて離さない。

「いえ」私は短く言った。

「こけたのかい」男は私の足首を正確に見て言った。

 私は彼の目と、視線の先を交互に見た。そして「はい」と認めた。

「痛むんだね」

「はい」私は頷いた。ともあれ、この男と対話する以外になかったから。

「折れてはなさそうだ」男は足首に触れる仕草だけ見せて、そう言った。調べもせずに、と私は思った。彼が私に触れたなら、なんとしても反発して見せただろうけれど。

「君を助けてあげたいが、僕には時間がない」男は言った。その言い回しは、今でも私の記憶に鮮明に残っている。僕には時間がない。その言葉はその時、とても奇妙に聞こえた。なぜなら、私には時間がたっぷりあったから。もっとも今では聞き飽きたフレーズである。ただ、その頃の私はまだ幼なくて、大人の言語を知らなかったのだ。

 男は私が口を聞かないのを見ると、黙って大きなポケットに手を入れた。まず右手、それから左手も。男はごそごそと中を探った。コンパスと地図が出て来た。ボールペンと鏡、水筒とバナナ。男はそれらを取り出したが、どれも目当ての物ではなかった。まだ男はポケットに手をやっていた。はさみの次にライターが現れた。「これだ」男は呟いた。それから、リレーバトンのようなもの。「これもだ」男は言って、私に手渡した。

「僕は未来から来た」去り際、男はそう言った。「君は助かるだろう。そしてみんなから、どうして簡単に助かったのか尋ねられるだろう。誰に助けられたんだとね。それでも、僕のことは誰にも話してはいけない。それは未来を変えることになる。未来に干渉することになるんだ。分かるね?」僕は頷いた。そうするしかなかったから。男は満足そうに唇だけ満面の笑みを浮かべると、木々の奥へと消えた。

 

 私はバトンの先に火を点けた。煙が上がり、ほどなく二人組の警官が現れた。警官の制服は泥だらけだった。言う間でもなく、私の服もそうだった。警官は私に事情を尋ね、私は未来から来た男の話をした。誰も信じなかった。当たり前のことかもしれないが、その時はなぜ誰も信じないのかとても不思議だった。大人は未来の話を信じない。それがしぶしぶ得た私の結論だった。

 今では私も大人である。

 

2006/04/22 - 2006/04/26

ツイート このエントリーをはてなブックマークに追加

この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。

星新一賞入選のロボット子育て小話「キッドイズトイ」はAmazon Kindleにて100円で販売中。

その他のテキスト

ノー
早朝の地下鉄で、一人の男が熟睡していた。大柄な男だ。スーツがだらしなくよれている。ちょうど私の向かい。他に乗客はほとんどいない。駅に着いた。ドアが開く。乗り換えを知らせるアナウンス。男が慌てて起き、飛び出す。ドアが閉じた。次の駅、私が降りようとすると、男が座っていたところに財布を見つけた。品のいい財布だ。私は拾って、駅員に届ける。駅員は目つきの鋭い初老の男性だった。私は彼に経緯を説明する。突然、「ありがとうございます!」という声。振り返ると、さっきの男がいた。「すぐに気付いて、次の電車で来たんですよ。盗まれたらどうしようかと思いました。いやあ、いい人に拾って貰って良かった」どういたしまして。私は会釈だけして、立ち去ろうとした。「あの、本当にありがとうございます」男は私の背中に言った。「良かったら、その、お名前だけでも。お食事でも奢りますけど」振り返らず、私は答える。「ノー」……

2050年の2ちゃんねる
「2ちゃんねる」という言葉を聞いてピンと来た人は、私を含めてもう若くないということを自覚しなければならない。……

夢の女、夢の僕
僕がこれまでに見た最高の夢は、恥ずかしい話ではあるが、女性に関するものである。僕は中学生で、彼女は高校生だった。彼女はパリッとした白いシャツに、制服の黒いスカートを着ていた。僕よりも背が15センチ高い。同じ電車、同じ車両、ドアにもたれかかりながら窓の外を眺める彼女を、僕は反対側のドアから2メートルの距離でじっと見つめていた。外は夕立だったが、二人とも傘を持っていない。天気予報が一日中快晴だと言っていたのだ。……

長崎くん
ある日のこと。会議から戻る途中、幼馴染の長崎くんから着信があったことに気付いた。僕は右手に持った携帯電話を開いたり閉じたり、かけ直すかどうかためらったが、そうこうしているうちにまた携帯電話が光り出した。……