youkoseki.com

長崎くん

 ある日のこと。会議から戻る途中、幼馴染の長崎くんから着信があったことに気付いた。僕は右手に持った携帯電話を開いたり閉じたり、かけ直すかどうかためらったが、そうこうしているうちにまた携帯電話が光り出した。

「もしもし」

「ああ、長崎だけど」長崎くんが言った。「仕事中か」

「うん、まあ平日の午後三時だからね」僕は言った。「どうした」

「死にたい」長崎くんはそっと言った。

「そうか」

「世の中はろくなもんじゃない」

「そうかな」僕は言った。

「いい世の中だと思うか?こんなところが。テレビ見てるか?」

「忙しくてあんまり見てない」

「嘘だね。目を背けてるんだよ、ひどい現実からさ」長崎くんは早口で続けた。「排水口に油を垂れ流しておきながら、都会の水はまずいとか言うような奴らばっかりさ。それから、搾取。搾り取ると書いて搾取だよ。地主と小作人の関係は、今日においてますます巧妙に隠され、生き永らえているんだ。考えたことあるか?金持ちはみんな搾取してるんだって。罪悪感を感じないように、自分たちでもそれと気付かないような方法でね」

「今日は荒れてるね」僕は言った。「どうかした?」

「世の中に絶望したんだ。絶望って意味分かる?絶望したんだよ」

「どうかした?」

「どうもしないよ」長崎くんはスイッチが切れたみたいに、急に冷静な声に戻って言った。

「どうかした?」

「何も」

「今日も競馬?」

「そうだ」長崎くんは言った。「絶対に勝つはずだったんだ」

「そうか」僕は短い言葉で、なんとか同情を示そうとした。

「ひどい世の中だ。生きててもいいことなんて何もない」

「そうかもしれない」僕は言った。

「一万円貸して欲しい」長崎くんはそっと言った。「週末は外さない。必ず当たるんだ。情報化社会では、情報を持った者が勝つんだからね」

「分かった」僕は頷いた。僕の財布にはけっこうお金があった。

「Thank you」長崎くんは言った。彼の英語の発音はとてもいい。十代のころ、七年間もボストンに住んでいたのだ。

 

 その週の土曜日、長崎くんは百万馬券を当てた。百円が百万円になる配当の馬券である。トラブルジョーにタカサキマックという、まともに走れそうもない馬が一位と二位を奪ったのだ。長崎くんはタカサキマックがどのように馬群大外から現れ、トラブルジョーがいかに後方からの追撃をかわしたか、絵を描くような勢いで僕に説明しながら、フグ鍋を気前良く奢ってくれた。

「来週はもっと確実なんだ」長崎くんは別れ際にそう言った。「圧倒的じゃないか」

 

 以来、半年が経った。彼からの連絡はもうない。

 

2006/04/08 - 2006/04/10

ツイート このエントリーをはてなブックマークに追加

この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。

星新一賞入選のロボット子育て小話「キッドイズトイ」はAmazon Kindleにて100円で販売中。

その他のテキスト

夢の女、夢の僕
僕がこれまでに見た最高の夢は、恥ずかしい話ではあるが、女性に関するものである。僕は中学生で、彼女は高校生だった。彼女はパリッとした白いシャツに、制服の黒いスカートを着ていた。僕よりも背が15センチ高い。同じ電車、同じ車両、ドアにもたれかかりながら窓の外を眺める彼女を、僕は反対側のドアから2メートルの距離でじっと見つめていた。外は夕立だったが、二人とも傘を持っていない。天気予報が一日中快晴だと言っていたのだ。……

三次元ポケット
学校の裏山で右足をひねった。切り株にひっかかって、派手にこけたのだ。暑い夏休みの一日のこと。私はまだ小学生で、毎日退屈していた。ふだん遊ぶ仲間たちは故郷へ次々に帰った。団地はがらんとしている。いつもそこを満たす、子供たちの歓声がなかった。……

見えない大学 : コンビニエンス・ストア
開店時には地元新聞に取り上げられるほどの注目を集めたにも関わらず、コンビニエンス・ストアが構内のどこに位置しているのか知る学生は少ない。部外者ともなれば尚更である。正門を入ってすぐ左手の案内所には、コンビニエンス・ストアまでへの道順を記した地図が山積みされている。どこかの気紛れなメディアが、物珍しい大学構内のコンビニエンス・ストアを紹介すると、それ目当てに現れる周辺住民や観光客が後を絶たないからである。……

見えない大学 : 自転車
広大な構内を走り回るのに自転車は必須である。どれだけ熟慮して時間割を組んだとしても、短い休み時間に次の講義を求めて大学を東隅から西隅まで横断して歩く必要が週に二度か三度は生まれる。それは自転車を用いても精一杯の距離だ。では教授が講義を延長したら?……