広大な構内を走り回るのに自転車は必須である。どれだけ熟慮して時間割を組んだとしても、短い休み時間に次の講義を求めて大学を東隅から西隅まで横断して歩く必要が週に二度か三度は生まれる。それは自転車を用いても精一杯の距離だ。では教授が講義を延長したら?
当然の結論として、学生は誰しもが目一杯に自転車をこぐ。そのためあちこちで衝突事故が起きる。事故はほとんどの場合、玉突き状に被害を拡大させ、構内の狭い道を塞ぐ。急いで迂回する。ぶつかる。足の骨を折る。悪い時には、死ぬ。死ぬのは大抵、自転車に乗らない者である。健康指向の者、スローライフを主張する者、あくせく講義を受ける必要がなくなった上回生、極度に金のない学生、ちょっとそこまでと図書館へ向かった院生、あるいは正門までタクシーでやってきた上位の教員、犬の散歩をする周囲の住民、偶然訪れた観光客などが、自転車に轢かれて死ぬ。轢き殺すのはおおむね、教科書を片手に乗ることが一般的な法学部生か、ここにはないことを考えながらも全速力で乗り回すことを生業とする理学部生である。
実際のところ、大学当局は自転車に乗ることを禁止している。二代前の学長が後ろから自転車に轢かれて腰の骨を折って以来である。それから自転車は来賓用に設けられた特別なスペースに駐車するか、あるいは特別な事情で許可された者にだけ与えられるシールを貼っていなければ、即座に専門に雇われた無数の職員の手で撤去される。シールは五千円程度で手に入る。偽造防止のためにその形状は毎年変更されるが、どこから漏れるのか正規のものより早く偽物が出回る。そもそも、偽物を正規品と見比べることは不可能である。同じ業者が作っているというのが学生の一般的な見解だ。
自転車の自由な乗り入れを禁止するため、大学当局が構内のあちこちに体一つが何とか通るかという幅のストッパーを設けていることも、事故増加の一因だろう。通常の自転車はその幅を通り抜けることが出来ないため、ほとんどの学生は自転車のペダルを抜き、かつてペダルがあった部分に足を乗せてこぐ。大学周辺の自転車屋は初めからペダルを外して売る。うっかり足を乗せる部分を誤ると派手に転倒することになる。そして玉突き状に被害が拡大する。
四月は新入生が大挙して到来するので、最も事故の多い月となる。彼等はまずペダル無しの自転車に慣れていない。構内の地理にも慣れていない。狭い道ごとに定まった暗黙のルール、どちら側の人間が先行し、反対側の人間がどこで待機するか、ということにも慣れていない。そのくせ、彼等は講義にはまじめに出席しようとする。人口密度が増える。もっとも、彼等は揃ってピカピカの新車を購入するので、すぐに盗難の憂き目に合うことになる。盗まれた自転車は種々のルートを経由し、早い場合はその日のうちに中古自転車屋の軒に並ぶ。上回生はなるべく見すぼらしい、それでいてチェーンやブレーキのしっかりした中古を選ぶ。あるいは撤去自転車を集めた「墓場」から適当なものを拾い上げて帰る。「墓場」の鍵は幾つかの読書系サークルが所持しており、一日二千円前後で借りることが可能だ。
自転車に色を塗るのも大切なことである。なぜなら図書館、食堂、工学部2号館、売店、経済学部B棟など、いくつかの建物の前では駐車される自転車の数が膨大になり、そこに空きを見出して停めるのも一苦労だが、後になって自分のものを探し出すのが何よりも苦労になるからである。駐車場所を覚えておくのはあまり得策ではない。自転車の山はしばしば倒され、引き上げられ、並べ替えられ、奥へと押しやられ、個々の職員が独自に抱く哲学により整列させられるからである。色は一年ごとに流行がある。すなわち去年、流行しなかった色である。黒のように夜見えないものを除くほぼ全ての色、つまり赤、青、黄、緑、白、橙、桃、灰、紫、茶、それぞれの蛍光色、縞模様、あるいは絵を描いたもの、籐のかごを持つもの、リモコン・スイッチを押すと点灯し、もしくはサドルが極端に高い、種々のシールが貼られ、名前が大きく書かれた、ハロゲンライトを備える、泥除けが壊れかけの、二人乗り、ドイツ製のチェーンロック、無理矢理動かそうとすると警報が鳴り、ずいぶん昔にパンクしたままで、今となっては持ち主不明の、そうした様々な自転車たちが、乗られ、何者かに激突し、倒され、盗まれ、撤去され、売られ、並べられ、買われ、踏まれ、塗られ、蹴られ、転々としながら、風を切って今日も大学構内を満たしている。
2006/01/25
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
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