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今夜陽気な月の下で

dionysos Vol.6収録

 目を閉じて一分程、二ヶ月前の事を思い出して欲しい。暗所恐怖症の人は五秒でいい。二ヶ月前と今を比べて、あなたは多分髪型も少し違っていて、仲の良かったはずの友達とはめっきり会わなくなっていて、自炊に目覚めたはずが外食ばかりになっていて、あんなに寒かったのに今は暑い暑いばかり言っている。こうした一つ一つの事を総合して考えると、ひょっとしたら二ヶ月前のあなたはあなたではないかもしれない。しかも二ヶ月なんて期間は、僕の良心の産物でしかない。それは二週間前でも同じ事だし、昨日でも同じ事だ。…僕は目を閉じて思い出す。二ヶ月前の事を。

 それは四月中旬の事。思えば四月は毎年、新しい人と出会う時期だ。最も、一昨年のそれは三桁だったが、去年のそれは二桁、今年のそれはどうやら一桁で納まりそうだった。だがその日に出会ったのはその貴重な一桁の中でもとびきりの一人だった。より正確には水曜日の四限「国際感覚ゼミナール」の第一回、出席者各々に与えられた軽い自己紹介の時間、それが僕が初めて彼女に会った時だった。

 

「私の彼は宇宙船のクルー候補です。」

彼女は明瞭な口調でそう言った。クルー。「乗組員、船員」(ジーニアス英和辞典)当時の、二ヶ月前の僕は、二ヶ月間夢中になって付き合っていた留学生の女の子と別れて二ヶ月が経ち、ようやくそれを現実として受け止めるだけの余裕を持ち始めていた。僕が彼女に出会ったのはそういう時だった。それが幸せな事だったのか、あるいは不幸な事だったのかは分からない。更に一月前に出会っていたなら、僕は他人に構う事など出来なかっただろうし、一月後ならば僕は彼女に興味など抱いていなかったかもしれない。全ては偶然だ。だが、それ以外が結局は起こり得なかったという意味で、全ては必然だったとも言える。つまりはこういう事だ。それは偶然だと思っている間は偶然であり、必然だと信じた瞬間から必然になる。今思えば、それは必然の出来事だった。

「候補と言っても、もう乗る宇宙船も決まっています。『サイン・オブ・タイムズ』という名前で、再来月には宇宙へと飛び立ちます。」

彼女は熱っぽくそう続けた。そんな名前の宇宙船があったかな、なんて僕はぼんやりと聞いていた。その瞬間の僕にとって、それは単なる他人ののろけ話で、僕の心を触発させる様なものでは到底なかった。最も、ちゃんとニュース番組を観ていれば『サイン・オブ・タイムズ』が正真正銘のアメリカ産スペースシャトルである事ぐらいは分かったかもしれないが。実際、ゼミの何人かは大きく感銘を受けた様だった。

 

 僕と彼女はそのゼミ初日後になし崩しに行われた呑み会でなんとなく映画の話で盛り上がった。何と言っても彼女と僕はコーエン兄弟の『未来は今』を自己映画史における最重要の一本と見なしている所で、ある種の共感をお互いに抱く事に成功していた。僕は酒の勢いと寂しさというやつから、彼女との出会いは下らないまでに運命的なものだと信じ始めていた。しかし同時に、恋人のいる人間をそういう目で見た経験がそれまで僕には無かったので、僕は僕自身の大胆さといい加減さに呆れてもいた。

 

 僕と彼女の二ヶ月の行動の記録。一緒にご飯を食べたのが二十数度、映画を見に行ったのが、大袈裟で下らないSFものとスリリングな法廷もの、で二度。彼女の家でビデオを観たのが五回。「ラジオ・デイズ」「ダイヤルM」「耳をすませば」「セックスと嘘とビデオテープ」「トゥルーマン・ショウ」その後、夜を明かすまで話し合った事が三回。

 僕と彼女は古くからの言い回しで言う所の「友達以上恋人未満」であり、どちらかにカテゴライズするならば「以上」「未満」の定義通り「友達」だった。

 彼女の話では、彼女が僕をはじめゼミのメンバー全員に恋人の存在の宣言をしたあの日の前日以来、彼女はそのクルー候補と会っていないらしかった。だが、だからと言ってただ寂しさを紛らわす為に僕を利用したと、彼女を糾弾する事は出来ない。何故なら誰もが誰かを寂しさを紛らわすために利用しているからだ。言うまでもなく、それには僕も含まれる。僕は彼女と付き合う間に、最初に自分が運命的だと信じたはずの出会いに対する自信を、僕はだんだん失い始めていた。いや、より実際的に言うならば、僕は僕の現状に満足を覚え始めていた。「恋人未満」に不満が無い訳では無い。だが彼女は誰かの恋人で、恋人がいない長い間を、彼女は僕と一緒に過ごす、という現状がここには悠然と存在する。僕は自分自身に問いかける。これ以上に一体、何が必要なんだ?

 

 誰もがご存じの通り、物語は残酷な結末を迎えるまで終わらない。ここには、良く知られた一つの前提が存在する。つまり、誰かの幸せは誰かの不幸だという前提。僕は幸せだったし、彼女も幸せそうに見えた。確かに、それはそう見えただけの事かもしれない。だがそれを言うならば、僕自身の幸せだってそう思えただけの事かもしれない。更に良く知られたもう一つの前提。客観は存在しない。だが、客観的に観ても不幸な人間が一人、この物語には存在する。そして、一つの不幸が物語の不幸となる。

 僕は彼の名前を知らなかった。そして彼女は彼の名前を僕に教える事無しに、僕の前から姿を消す事に成功した。僕がその名前を知ったのは僕がそれなりの熱心さで宇宙船に関する話題をニュースで追いかけ初めてからであり、その名前を知った後も僕と彼女の二人の場で、彼の名前が実際に出る事は遂に無かった。だから僕は、彼女のその意気に敬意を表し、今後、彼の事をクルーと呼ぶ。

 

 僕と彼女が二人でビールを飲んでいる時、ドーナツを食べている時、政治論争に花を咲かせている時、自転車で川沿いを走っている時、ありとあらゆる時に、彼女はクルーからの電話を受けた。時差の関係で、それは夜中になる事もままあった。彼女の携帯電話は、相手からによってその着信音を鳴らし分ける事が出来る。クルーからの電話で流れるそれは、ジャミロクアイの「ハーフ・ザ・マン」だった。少し後になって、僕はその曲が失恋を歌ったものである事を知る。だが、彼女がその事を知っていたかは未だ分からない。

 

 あの頃僕は、半分だけの人間だった。

 何故ならそれは多分、君が僕の残り半分だったから。

 

 クルーと彼女との会話は、毎度毎度、とても奇妙に聞こえた。そのイントネーションは日曜午前中のテレビプログラムで政治家同士がお互いを突き放し合う時に使用する言語を彷彿とさせるもので、具体的な言葉として彼女は「それについては以前にも言ったでしょ?」と言うのを多用した。

 彼女とクルーが恐らくは不毛な、もしそうでないならば喜劇的とも言えるコミュニケーションを続けている間、僕は大抵、一人で何もする事の無い時間にそうする様に本をなんとなく読んだが、それはいつもにも増してなんとない読書になる事ばかりで、結局はその会話に耳を奪われてしまう事ばかりだった。

 

 彼女の願いはクルーの夢が叶う事で、クルーの夢は彼女の住む地球から自分自身を解放する事だった。「運命の皮肉」全ては悪意を込めて、この五文字で片づけられる。クルーが彼女から離れれば離れる程、彼女は僕にとって身近になる。全く、「運命の皮肉」。

 確かに、彼女は強がっていたのかもしれない。彼女は誰と出会っても、自分の事ではなく、まずクルーの事を話した。しかも会話の中身はほぼ全て、クルーへの賞賛で埋め尽くされていた。大抵の人は彼女の事を、よほどにクルーを愛している人間なのだと思っただろう。全く、彼女とクルーの不可思議な電話を何度も見た僕だって、そう思わずにはいられなかった。

 

 最後の一日。クルーが無重力空間で藻掻いているのを、僕と彼女はブラウン管越しに見ていた。クルーの手は何かを掴もうとしてはそれに失敗し、掴もうとしてはそれに失敗する、というのを繰り返している様子で、その船内をぐるぐると泳いでいた。

「それでは、最後に何か地球にメッセージを。」

 アナウンサーが言った。クルーは少し難しそうな顔をした後で、言った。

「恋人を地球に残してきてしまいました。彼女には悪い事をしたと思います。」

 アナウンサーは呆気にとられた顔で、しばらく凝固していた。それは僕も同じだった。何万人、何億人の人間がこの言葉を聞いたのだろう。僕は、おそるおそる彼女の方を向いた。彼女は下を向いていた。僕は何か言うべきだったのだろうが言葉が見つからず、散々躊躇して、テレビがそのニュースを終えてコマーシャルになってからようやく、「良かったね。」と言った。だが、彼女は頷かなかった。代わりに突然僕を抱きしめて、その唇を僕のそれに重ね合わせてきた。

 

 夜、あの夜と同じ様な暗い静かな夜に、僕はふと彼女の事を考える。あの夜、僕と彼女は何度もキスをした。そして彼女が泣いたのは、全てが終わってからだった。

 

 その次の日から、彼女はゼミに出席しなくなった。僕は宇宙船についてのニュースを見るのをやめた。以来、僕は彼女にももちろんクルーにも出会わず、僕はまた一人で映画を観るようになり、一人で食事を摂る様になった。そしてそれは、二ヶ月後にバイト先で知り合った女子高生と付き合い始めるまで続く事になる。

 

2000

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このページにある全ての記述は、特に明記のない限りフィクションです。また著者である小関悠が個人の立場で書いたもので、所属する組織などの立場や意見を示すものではありません。
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