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父の仕事:ラブレターの代筆

 どうしてラブレターの代筆を頼まれるようになったのか、はっきりとは覚えていないんだ。友人たちとの酒の席で、過去にどんなラブレターを書いてきたかという話になったんだと思う。私がつい自作を紹介してしまって、そうしたら予想以上に持ち上げられてしまって、確かそんな流れだった。

 

 それは高校生の時に書いたラブレターで、自分がいつから相手を知っていたか、いつから好きになったか、どの部分やどの仕草が好きかといった、細々としたことを淡々と綴ったものだった。何度も何度も書き直したから、今でもそらんじて言えるはずだよ。もちろん死んでも言わないし、試そうとさえ思わないけれど。まったく気持ち悪い内容なんだろうな。幸い怖気付いて、最後まで渡すことはなかった。だから探せば家のどこかにはあるはずだ。見つけたら開けずに墓に埋めておくれ。

 

 とまれ、そうやってラブレターの代筆をやるようになった。大学時代のことだ。最初に頼んで来たのは親友の関根。ああいうラブレターを自分でも書いてみたいんだけど文才がないから代筆をしてくれないか、と言ってきたんだ。もちろん書いた。二日か三日はかかったな。関根は失恋したのでラブレターとしては失敗だったが、それはまあ本人の問題で、文章としては良く書けていた。証拠に、評判を聞きつけた他の人達も代筆を頼むようになってきたんだ。

 

 はじめはボランティアだった。友人が相手だったからね。でも友人の兄貴とか、友人の友人とか、友人の従兄弟の隣の家の人とか、論理学の教授とか、とにかく色々な人から次々と依頼が来るようになって、これは対価がなければやってられないと思ったんだ。千円とか二千円とか、それくらいだったと思う。いや、当時の物価を考えるともっと安かったかもしれない。一生を託すものにしては破格だったと言ってもいい。

 

 割に合わない仕事だった。ラブレターを書くには時間がかかるんだ。どういう人に送るのか、背景を理解しなければいけない。相手の素晴らしさを讃えるようなラブレターにしたかったんだ。送る側がどういう人かというのは全然気にしなかった。完璧なラブレターというものがあるとすれば、それは誰が送ったとしても心に響くもののはずだろう。

 

 偉そうなことを言っているけれど、完璧なラブレターを書いたという自負はついに生まれなかったな。残念ながら。一つには、失恋に終わることがずっと多かったせいだろう。そういう時はいつも責任の一旦を感じていた。そもそも成功したことはなかったんじゃないかな。

 

 どう書けばいいのか迷った時期もあった。とにかく数を書いたからね。昔のラブレターを使い回せば良かったのかもしれないが、そうはしなかった。使い回しのラブレターで告白なんてされたくないだろう。だからあの頃はよく本を読んだな。目の覚めるような名言を探してね。アフォリズムを最後に入れるのにも凝っていたよ。「恋とはサメのようなものなんだ」とかね。いや、「恋とかけてサメととく、その心は」だったかな。百以上は、そういった恋についての格言を集めたと思う。それにしても、どうしてサメだったか。

 

 最後に書いたラブレターは、初めて女性から依頼されたものだった。これは難しかった。その女性は大学の同級生だったのだけど、なにしろとても素敵な人だったんだ。正直に言うと、私は彼女のことが好きだった。いっそ白紙のまま封をして、そのまま渡すよう言おうかと思ったくらいだ。でも結局は、力の限り彼女の魅力が伝わる文章を書いた。友人の帰国子女に頼んで、フランス語の格言も加えたよ。書き終わった時には本当に疲れ果てて、もうこんな仕事はやめようと思ったんだ。以来、一枚も書いていない。本当に。

 

 幸か不幸か、それから彼女は失恋した。それで私と付き合うことになったんだ。いや、母さんじゃないよ。複雑な気持ちだったな。完璧なラブレターを書いていれば、彼女とは付き合わなかったんだろうから。ただ、彼女とはなにもかもうまく行かなかったから、結局は半年ほどで別れた。懐しいよ。とにかく昔は誰でもラブレターをよく書いたんだ。母さんと知り合ったのはその後のことだから、もちろんラブレターは書いていないよ。告白したことさえよく覚えてないけれど、酔った勢いだったんだろうな。

 

2008/12/18 - 2008/12/21

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この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。

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「砂の城」パーベル・クロチェフ
パーベル・クロチェフは90年代にロシアで活躍したサッカー選手、ストライカーである。1970年ナホトカ生まれ。地元のFCナホトカ・ユース時代は取り立てて見所のない選手であったが、187センチの長身を当時ナホトカの監督に就任したばかりの知将チチに見込まれ、88年にソビエト連邦一部リーグ(二部に相当)所属のトップチームに昇格。88年シーズンの第三節、デビュー戦となったニコライ・モスクワ戦で開始三分にPKを獲得して勝利に貢献して以来、ナホトカのエースとして長年活躍する。長身のわりにポストプレーを苦手とし、決定力に課題を残すものの、試合終了まで走り回るスタミナと、長い足を大きくストライドさせて走るスピードには定評があり、多くのファンを魅了した。91年シーズンにはリーグ得点王。PK獲得技術に優れ、この年の32ゴールのうち22ゴールがPKによるものである。ペナルティ・エリアでディフェンダーと衝突した細い体が大きく崩れ落ちる様は「砂の城」と呼ばれ、相手チームに恐れられた。当時は、60年代のナホトカに所属し、PKだけで100ゴールを決めた故レフ・ミコロビッチにあやかり「レフ二世」とも呼ばれた。インタビューでPK獲得技術について問われたクロチェフは、十代の短い時期に20センチ以上も身長が伸びたことを明かし「だから私の体はバランス感覚が崩れており、ポストプレーが不得手なのも、また倒れ方に独特のリズムがあるのも、このせいかもしれません。何事にも表裏があるのです」と説明したといわれる。92年シーズンにも27ゴール(うち24ゴールがPK)を決めると、この年チームを首位に導き、ロシア・プレミアリーグ昇格に大きく貢献。93年にはロシア代表にも選出される。同年モスクワで行われたイタリアとの親善試合に途中出場し、後半ロスタイムにバレージからPKを獲得する活躍を見せるも(ゴールはイトリビッチ)、代表としてのキャリアはこの一試合に留まった。96年シーズンには十節のロコモティフ・モスクワ戦でPKだけで3ゴールのハットトリックを達成。チームも単独首位となり、リーグにナホトカ旋風を巻き起こす。続くゼニト・サンクトペテルブルク戦でも5ゴール(うちPKで4ゴール)を決めたが、5回目のPK獲得の際に両足をすくわれて腰を骨折、シーズン絶望の大怪我となり、チームの成績も急降下、一部リーグへと降格してしまう。クロチェフには「一年間転がるだけの選手」といった批判も多いが、昨年発売されたDVD「クロチェフ全ゴール集~砂の城~」を見ても明らかな通り、獲得したPKはほとんどが妥当なものであり、彼のゴール前でのバランス感覚と、相手ディフェンダーのいやがる所にポジショニングを取る嗅覚から生まれたものである。また、その誠実で謙虚な人柄は彼に苦しめられた他チームのファンからも一目置かれていた。クロチェフは一年のリハビリを経て97年シーズン半ばに怪我から復帰。しかし完調にはほど遠く、この年のゴール数は9、PKはゼロであった。99年シーズン前に監督交代を巡るゴタゴタから、かつて彼を指導したチチを追ってフランスのレンヌに移籍。スーパーサブという扱いながら10ゴール(うちPKが7ゴール)というまずまずの成績を残す。以降、オセール、ナントとフランスを渡り歩くが、目立った成績は残せず。03年シーズンにナホトカへ復帰。スピードの衰えは隠せず、中盤で起用されることや、PK獲得を狙って試合終了直前に投入されることも多かった。04年シーズンにはPKを失敗することが目立つようになり、シーズン終盤からは他の選手に譲るようになる。チームメイトのロドリコ・チェスはこの年24ゴールで得点王となったが、うち13ゴールがクロチェフの獲得したPKであることは有名。05年シーズン終了を機に引退。半年後にロシア代表対ナホトカという形式で行われた引退試合でも前半と後半に一つづつPKを獲得し、有終の美を飾った。「私は一流ではなく、二流でさえないかもしれないが、何度かファンを喜ばせることはできた」という彼の引退時のコメントは、一部リーグが中心であったとはいえ、ソ連/ロシアリーグで通算200ゴールを決めたストライカーとは思えないほど慎しいものである。解説者を経て07年よりナホトカ・ユースのコーチ。ファンからは将来のトップチーム監督就任を嘱望されている。……

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