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あたらしい愛

 浮気がばれて恋人が家を出て行った。待てよ! と俺は言い、追いかけようとしたが、革靴の汚れが気になったので先に磨くことにした。モウブレイのステインリムーバーはよく落ちる。

 浮気といっても大したことじゃあない。宴会の席で、男癖のわるいサークルの先輩に絡まれている写真が出て来ただけだ。俺は全面的な被害者だ。おまけに写真は俺の携帯電話の中にあったはずで、彼女はご丁寧にも人に無断で携帯電話を盗み見、写真データをコピーし、写真屋で印刷してきたのだ。そして俺の前で泣くのだ。信じられない、と彼女は言う。信じられないのは俺の方。それでも誠実に謝罪する俺はえらい。それ以上の証拠はなにもないはずだ。

 とまれ、家を出た。寒い。マフラーを取りに戻る。恋人がどこに行ったかは分かっている。三分ほど歩いたところにバス停があって、いつもそこのベンチに座っているのだ。俺は家に鍵をかけて、外に出た。最近、このあたりでは空き巣が多いらしい。不安もなくはないが、静かな住宅街で家賃も安いので、今の家は気に入っている。ただし二人で住むには狭いので、それが俺と恋人の苛々のもとになっているのかもしれない。

 その夜も街は静かだった。自分の足音だけが闇空に響く。夜となるといっそう人影の少ない地域だ。だからシャッターの降りた酒屋の角を曲がったところで、白装束の女と不意に遭遇した俺は心底驚いた。ひゃっ、というような声が出た。女はピンク色のポーチを肩から提げ、反対の手にラジカセを持っていた。女はスイッチを押す。ラジカセから低いドラム音が流れる。ドン、ドン、ド、ド、ドン、ドン、ド、ドン。そしてふらふらとこちらへ歩いてくる。こういう類の人間には近寄っちゃいかん、と俺の本能が囁く。あ、ちょっと忘れ物をしてた、というような顔を作って、回れ右をしようとした。遅かった。もしくは、甘かった。女は回れ右中の俺と目が合うと、にやりと笑ったのだ。そしてポーチの中から、フルーツ用くらいのナイフを取り出した。俺は回転を止めた。そしてナイフを持つ女と対峙した。銃刀法違反だと俺は思ったが、声は出なかった。

 そういうわけで沈黙を破ったのは女の方。あのー、と女は言った。八十年代のアイドルみたいな透き通った声だった。

 はい? と俺、仕方なく答える。

 恋人と別れたんですよね、さっき、と女。ナイフの先を俺の胸へまっすぐ向けたまま。ドン、ド、ド、ドン。

 え? いや、まあ、まだ決まったわけじゃないんですけど。

 じゃあ正式に別れたら私と付き合ってくれますか二年くらい待ってたんですけど私あの女よりずっといい女なんです。女はそう言って、またにやりと笑った。たぶん、その笑い方がチャーミングだと自分で思っているのだろう。たぶん、鏡の前で笑ったことがないんだろう。

 ええと、と俺は言った。ええと、ちょっとした喧嘩で、別れようとしているわけじゃないんだよ、ありがとう、その。

 じゃあもう数年待っていればいいですかそうするのは私の勝手ですか構いませんか待っていても。ドン、ド、ドン。

 ええと、と俺は言った。いや、そりゃあ待つのは自由だけどさ、でも、なんと言えばいいのか、その。

 なぜか女はそうした俺の言い回しを肯定的なものと捉えたらしい。この人は私に気がある、だけれども今はいちおう恋人の存在がある、だから曖昧な返事をして気を持たせておこう、そういう風に捉えたらしい。そしてドラム音は景気付けに流した、彼女のお気に入りのヒップホップ・ミュージックだった。すべて彼女から後で聞いた話。

 

2008/11/12 - 2008/11/15

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この文章は小関悠が個人の立場で書いたもので、所属する組織などの立場や意見を示すものではありません。特に明記のない限り、この作品はフィクションです。

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