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恋愛ゲーム概説

おはようございます、TAの桂木です。森下教授が学会で出張のため、本日の講義は私が担当することになりました。私はいまドクターの四年で、恋愛ゲームの歴史について研究をしていますので、今日はその概説をご紹介しようと思います。試験には出ませんから、ご興味のない方はお帰りいただいて構いません。

 

恋愛ゲームとはなんでしょうか。定義は色々とありますが、簡単に言うならば、仮想的な人格を獲得し、異性、時に同性とのバーチャルなコミュニケーションをはかるゲームと考えられるでしょう。仮想的な人格と、仮想的な交流の二重構造がひとつのポイントであり、結論から先に申し上げれば、この構造の解体こそが恋愛ゲームの歴史であったと言えます。

 

もちろん技術の進化、あるいは社会の変化にあわせたゲーム構造の変容は、なにも恋愛ゲームに限ったものではありません。一口に「アクションゲーム」と言っても、1980年のそれと、2030年のそれは大いに異なります。そのうえで、恋愛ゲームの歴史を振り返ったとき、大まかに三種類か四種類に区分できるのではないか、というのが私の考えです。

 

具体的に見ていきましょう。はじめ、恋愛ゲームはパズル型でした。つまり、回答があって、それを見つけるのが目的だということです。パズル型では、アクションとして選択肢が与えられ、最初のデートは水族館かカラオケか、もう一押しするか引くか、どちらがいいかを選んでいきます。パズルには正解がありますし、この時代の恋愛ゲームもそうでした。

 

パズル型のデメリットは、あらかじめ設定された物語しか存在しないということでしょう。言うまでもなく、あらかじめ設定された物語の上では、仮想的な人格との仮想的な交流しか起こりえません。パズル型において偶然の出会いは、偶然の出会いとしてあらかじめ設定されたものしか存在しえないと言うこともできます。

 

なぜパズル型のような窮屈なデザインが一般的だったのでしょうか。端的に言えば、それは当時のゲーム技術が貧弱だったからでしょう。緻密なエージェントを動作させるハードウェア能力もなければ、そもそもそのようなゲームデザインを実現させるための知識もなかった。

 

しかしパズル型恋愛ゲームのデザイナーはこの制限を逆手にとり、一本道の物語を濃密に演出する手法を取りました。ですから、パズル型の恋愛ゲームは、絵本型であると言い換えることもできるかと思います。恋愛ゲームそのものが作品として文学的に愛されたのも、パズル型の特長です。

 

後で触れますが、現在はエージェント型の恋愛ゲームが大幅に規制されていますので、今日の恋愛ゲームはこのパズル型に回帰しています。

 

パズル型の次に現れたのが、そのエージェント型です。エージェント型の恋愛ゲームにおいては、あらかじめ定められた筋道は存在しません。存在するのは、無数の物語の断片であり、複雑なパラメーターに従い、そうした断片が連続的に喚起されることで、一本の物語が作り上げられるというわけです。

 

パズル型からエージェント型へという変化は、驚くようなことではありません。ハードウェアの能力が増し、膨大な量の物語をゲームに投入できるようになりましたが、それを文学的に破綻のない形で実際に準備しておくのは簡単ではありません。そこであらかじめ完成した物語を用意するのではなく、物語の断片を紡ぐ形へと切り替えることにより、物語的なものを量産することができるようになったのです。

 

エージェント型の恋愛ゲームには、今になって思うとおかしなものも少なくありません。誰も物語をコントロールしてませんから、前後に矛盾を孕んだような展開になることもしばしば起こりえます。しかし絵本としての恋愛ゲームに慣れていた世代にとって、時として破綻をきたすエージェント型のあやういゲームデザインは、ある意味でリアルに映ったはずです。この頃の恋愛ゲームは実に気まぐれであり、面白いことに、それが恋愛のリアリティを生み出していたのです。

 

もちろん、そうした矛盾や破綻は、技術の洗練と共に少なくなってきます。後期のエージェント型では、むしろいかにゲームデザインをリアルのように「崩す」か、つまり現実にしか起こりえないような突発的な、できすぎた、ありえないイベントをどう盛り込むかが課題となりました。

 

ここで横道に逸れて触れたいのが、ライフログについてです。先程申し上げたとおり、パズル型の恋愛ゲームにおいて、選択はゼロイチでした。しかしエージェント型では、なんらかのパラーメータを閾値と比較していくことで進行していきますから、必ずしもゼロイチである必要はありません。

 

その結果、朝の何時に恋愛ゲームに触れるか、バーチャルなキャラクターにどのような声をかけるか、あるいはプレイヤーはどのような嗜好を持ち、どのような欲望を抱いているか、そうしたアンビエントな状態をゲームに利用できるようになりました。つまり、ライフログと恋愛ゲームが結合したのです。

 

言い換えれば、これはプレイヤーと、ゲームの主人公の接近でもあります。二重にバーチャルであった恋愛ゲームは、エージェント型の発展とライフログの活用により、自分自身としてバーチャルな相手とコミュニケーションを行う仕組みへと変質していったのです。

 

この流れを考えれば、エージェント型がそのあと集合知型となったのも理解できるでしょう。恋愛ゲームは膨大なデータを活用するようになり、パズル型のような筋道を追い求めることをやめてもなお、エージェントやそれを満足させるための物語の断片を集めるのが難しくなったのです。エージェント型が多くなりすぎ、現実に接近した結果、皮肉にも個性的なゲームが生まれなくなったという指摘もあります。

 

集合知型では、ライフログを恋愛ゲームのパラメータに利用するだけではなく、恋愛ゲームの断片としても利用します。つまりライフログのデータ、人は待ち合わせ現れない恋人を何分待つのか、初めてのデートでどこへ行くのか、失敗した恋愛はどのように終わるのか……という情報を収集し、それをゲームとして構成するのです。

 

個人的には、現実の断片をゲームに利用するというこの発見こそが、恋愛ゲームの絶え間ない進化においても、最も刺激的な出来事だったのではないかと考えてます。現実がゲームを介し、また現実へと戻っていく。見事なサイクルと言えるでしょう。これは大規模エージェントを開発するような資本を持たないゲームメーカーが始めた試みですが、いつの時代も小さな存在が新しい流れを生み出すのですね。

 

こうして恋愛ゲームは、あらかじめ用意された仮想世界の体験から、誰かの恋愛の断片をくぐり抜けていくようなシミュレーターへと生まれ変わりました。そして最後には、恋愛ゲームは、誰かの体験と誰かの体験を結びつける、マッチング型になったのです。

 

マッチング型を集合知型の一部と見なす向きもありますし、いわゆる恋愛ゲーム規制法では集合知型からマッチング型まですべてエージェント型としていますが、私ははっきりと区別しておきたい。なぜなら、マッチング型にといてはもはやすべての交流は仮想的ではなく、ただ遠くどこかにいる知らない人との恋愛を、ゲームという体裁に仕立てているだけだからです。マッチング型において、恋愛ゲームはリアルな自分が、リアルな他人とリアルなコミュニケーションをするものになったと言えます。

 

こうしてマッチング型の恋愛ゲームが一世を風靡しました。人々はゲームを介して知らぬ誰かと恋愛をはじめ、長く付き合い、時には子供を産むようになったのです。それは確かに伝統的な家族像ではなかったかもしれません。ほどなく恋愛ゲーム規制が巻き起こったことに対して当然と思う人もいるでしょう。

 

しかし私は、そのような社会的な、私達の日々の生活や人生に根付いた、人生を文字通り左右するゲームがあっても良かったのではないかと思います。まあ、それは私自身、恋愛ゲームがなければ存在しなかったからかもしれませんが。

 

2012/03/26 - 2012/04/22

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この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。

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