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餃子が食べたい

 土曜の夜、お風呂から上がったところで小腹が空いて、餃子が食べたいとふと思った。困った。一人暮らしをはじめて三年近く。いまだ自炊なんてぜんぜんできなかったから、こうなったら、どこか餃子を出してくれる店に行かなきゃならない。

 ないわけじゃない。家から十分歩いたところに古ぼけたラーメン屋がある。昔付き合っていた彼女の家の近く。大通りに面しているのに見落してしまいそうな小さい店で、昔はよく二人で食べに行ったものだ。いつもは豚骨ラーメンしか食べなかったけれど、たしかサイドメニューに餃子があったはず。餃子だけ、注文できるかしら。時計は十一時を差す。閉店は十二時。まだ間に合う。

 晩ごはんは近くの定食屋で、たっぷりメンチカツを食べた。キャベツのおかわりもした。おなかいっぱいでもおかしくないはずだった。でも小腹が空いてしまったのだ。ほんと、餃子のぶんだけ、ちょっとだけ空いてる感じ。ラーメンまでは一緒には食べられそうにない。

 そして、間違いなく外は寒い。湯冷めして、風邪をひくかもしれない。でも餃子。僕は悩みながらも防寒着を次々と着込み、毛糸のマフラーと毛糸の手袋、毛糸の帽子を一式身にまとう。別れた恋人が作ってくれたものだった。手先の器用な人だった。準備は万端。

 はたして、外は雪だった。顔が冷たい。でも着込みまくったせいか、体は寒くなかった。餃子、餃子。足下を見つめながら歩く。人も車もいなくて静か。走り出したくなる気持ちを抑える。そうして一分歩いたところで財布を忘れていることに気付く。はーっと白い溜息。まいったね。家にさっと戻って、財布のついでにiPodも手にして、またさっと出た。ぐだぐだ落ち込んでいると、ラーメン屋まで歩く気力がなくなってしまいそうだった。

 イヤホンを耳につっこみ、なにを訴えているのかよく分からない、威勢のいいヒップホップを聞く。そして大股で歩く。餃子はシンプルな焼餃子が好きだ。蒸餃子は上品すぎるし、水餃子は食べた気がしない。焼餃子、ひき肉がたっぷり入ったやつを、醤油もラー油もつけずがつりと食べるのがいい。そうだ、ビールも頼もう。

 小学校の角を曲がって、いつも客のいないコンビニに見向きもせず、小さな横断歩道を赤信号のうちに渡り、ラブホテルが並ぶ裏路地を通り過ぎ、ゆるく上った坂道を歩いて、潰れたガソリンスタンドが見えたら、ラーメン屋まであとすこし。自転車で来れば良かった。

 僕は真近に迫った餃子を想って、視線を前にやる。すると、ガソリンスタンド跡地でカップルが喧嘩をしていた。男女がヒップホップの向こうから聞こえるくらい大きな声で罵りあっている。いや、もっぱら女が怒り、男は泣いているようだった。ガソリンスタンドの横を抜けながら遠目に見ていたら、女のほうと目があった。別れた恋人だった。

「あっ」と彼女は言った。

「ああ」僕はイヤホンを外し、偶然、彼女の存在にいま気付いたような素振りで言った。「なんか、小腹が空いてね、あの、ラーメン屋のさ」言いながら、足取りを止めないよう、ラーメン屋に向かって歩き続ける。

「とにかくそういうことだから」彼女は泣いている男に向かって言った。

「まだ終わってねえだろう!」男は泣きながら大声をあげる。

 彼女は、ぱん、と男の頬を平手打ちした。男の白い頬がみるみる赤くなる。「行きましょう」彼女はそう言った。僕に。僕はいつのいつの間にか足を止めていたが、彼女に言われてまた動かした。そして彼女と並んで歩き続けた。よく見ると、彼女もすこし泣いていた。後ろを振り返ったが、男はうなだれるだけで、追ってはこなかった。

 ラーメン屋についた。まだ明るい。店前の食券機には餃子のボタンがある。300円。

「おなか空いてるの?」彼女は言った。「うちに、残り物のシチューがあるけれど」そう言って彼女は自分のマンションを指差す。そう、すぐそこだ。知ってる。

 彼女は浪人時代、ストレス解消のため料理教室に通っていたことがある。なんか高級な料理教室だ。そういうわけで、彼女の手料理はどれも抜群に美味しい。おまけに手際が良いので、いつでも作り置きがある。ビーフシチューにフランスパン、サーモンのマリネまでがテーブルに並んだかと思うと、そのあとすぐさっと作ったコンソメスープが出て来た。僕は自分でも驚くほど腹いっぱい食べて、彼女と近況を話あい、そのまま寝た。そして、寝る前に思った。餃子、食べたかったなあ。

 

(Photo by Matthieu Joannon)

 

2012/02/17 - 2012/05/05

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この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。

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