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部屋が見える

 向かいに住む女が結婚すると知ったのは、プロポーズの会話を直接聴いていたせいだ。彼女の住むマンションと私の住むマンションは狭い路地を挟んで向かいあい、部屋はどちらも五階。三十路前というのに彼女はいつもカーテンを開けっぱなしにして、その気がなくても外に目をやれば生活の様子が伝わってきた。

 

 彼女は決して美人と言えるようなタイプではなく、平凡で、地味で、そもそも女を磨く努力など考えたことない様子で、せいぜい愛嬌があるというくらい。いつもおっとりとしている。朝の六時に起き、ゆっくり朝ごはんを作って食べ、八時に家を出て、半時間離れた都心のオフィスまで地下鉄で通い、仕事は経理、忙しい月末以外は夜の七時に帰宅し、またゆっくり晩ごはんを作って食べ、お風呂に入って、十時には寝てしまう、そんな生活をずっと送っている。

 

 そんな毎日を私は退屈な絵画の並ぶ美術館のように観賞している。彼女の平凡な日常性、同じことの繰り返しに惹かれたのかもしれない。彼女はなにを楽しみに生きているのだろう。もしかして、彼女の単調な生活の裏にはなにかドラマがあるのだろうか。そんなことを考えながら、時には郵便物を調べたり高性能マイクを彼女のワンルームに仕掛けたりしたのだが、残念ながら成果はなにもなかった。いつだって彼女はつま先から体を洗う。寝言ひとつ言わず人形のように眠る。近くのローソンで買ったワッフルを大事そうに食べる。たったそれだけの、録画のような毎日。

 

 それなのに、彼女はある夜に男から電話でプロポーズされる。そして来月には都内でも有数のフレンチレストランで披露宴を行い、そのあとすぐこの家を引き払ってしまう。電話を聞いたときは本当に驚いた。男の声はがさつでうるさく、内容は私の盗聴器にまでしっかり聞こえてくる。「どうしよう」と、はじめこそ彼女は答えたが、すぐに覚悟を決めたようで「そうしましょう」と答えた。

 

 訳が分からなかった。私はメモを読み返したが、少なくともこの一年、女は一度も夜に家を開けたことはなかったし、年に二度、東北の実家に戻るとき以外は、いつも九時までには帰宅していた。相手は会社でいつも会う同僚だというので、もしかしたら昼ごはんや、軽い晩ごはんを食べる仲だったのかもしれない。会社では直接言う勇気がなかったと、男は電話でのプロポーズを弁明する。そんな男を、女は「かわいい」と言う。

 

 誰かが結婚するという話は、私を自分でも想像する以上に滅入らせた。私が離婚したのはもう何年も前のことだが、その傷跡は今になっても消えることがなかった。むしろ誰かが幸せいっぱいで結婚するのを見るたび憂鬱になった。幸せな人達が嫌いなのではない。幸せぶりを前にした時、彼らを待ち受ける残酷な運命の可能性を誰も警告できないことに悲しく思ったのだ。

 

 私自身に関して言えば、短い結婚生活はほんとうに最悪だったから、再婚なんて考えるのもうんざりと思えるようになったのは収穫だった。実家に電話をすると、母はいつも、新しい女は見つけられないのか、というようなことを言う。でも私は向かいの部屋をずっと観賞しているのだから、そんな時間などない。死んだ父は、初めてあの女の太い腕を見たとき、なんて暴力的な雰囲気なのかと陰口を言った。母はムッとしたものだったけれど、でもあの女は本当に暴力的だった。男しか分からない直感もある。私は直感を感じたのに信じなかった。そしてそのツケを払った。そのようなことを淡々と言うと、母はさすがに黙る。

 

 探偵が「かわいい」男の情報を続々と集めてくる。線の細い優男で、肉は鶏肉しか食べず、楽器を集めるのが趣味だと言う。若く見えるが三十半ばで、女より五つほど年上だ。仕事は雑だが物事を進めるのが早く、部下には慕われていると探偵は言う。男は女が就職活動をしていた時の面接官で、入社後もときどきメンターのような役回りをしていたらしい。去年まで別の女と付き合っており、結婚直前と噂されていたが、いつの間にか立ち消えとなってしまったため、新しい女との結婚話は驚きを生んでいると。いかがなものか。

 

 結婚式の三日前、男が女の家に泊まりに来る。女は朝のうちに作っておいたマカロニグラタンを焼く。鶏肉は丁寧に皮が捨てられている。「面接のときのことを覚えているかい」持ち寄ったワインを片手に、男はがさつに言う。聞いていられない。私は初めて盗聴器の電源を切る。そして電気を消し、布団にくるまる。

 

 目を閉じたが眠れなかった。そして女の悲鳴が聞こえた。文字には出来ないような、長くかん高い声であったが、それは確かに女の声であった。私はパジャマ姿のまま起き上がると裸足のまま家を飛び出し、階段をかけ降り、女のマンションのオートロックを開け、エレベータが7階で止まっているのを見て、階段をかけ上がる。こんなに激しい運動をしたのはいつ以来だろう。体がどんどん重たくなっていく。それでも女の部屋になんとか辿りつく。合鍵を使って玄関を開けると、ワンルームゆえ、そこがもうリビングルームである。ぎょっとした顔の男。私は襲いかかる。男のひきしまった体は飛びかかった私をさっとかわすが、私はなんとか体をふんばると、男が体勢を整え直す前に、その脇腹めがけてとっさに持ち出してきたバタフライナイフを刺す。ナイフは男のワイシャツを切り取り、腹から血を流す。

 

「痛、痛い」と男は言う。男は破れたワイシャツと派手な柄のトランクスという格好。そしてあらためて見ると、女は私と揃いの青いパジャマを着ている。「血、血が」男は言ってうずくまるが、深い傷ではない。大丈夫でしたか、と私は言う。女は安堵したような表情で、にっこりと頷いた。

 

2012/05/27 - 2012/07/18

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このページにある全ての記述は、特に明記のない限りフィクションです。また著者である小関悠が個人の立場で書いたもので、所属する組織などの立場や意見を示すものではありません。
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