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ハロー・グッド・バイ

「別れよう」と言われたので別れることになった。四月の頭のことだった。エイプリルフールかと僕は思った。そう思ってしばらくの間、ふつうの生活を送った。ふつうに毎日朝起きて、夜眠った。普通にご飯を食べ、お茶を飲み、映画を観た。彼女がいないだけの、いつもの生活だった。

 銀杏の葉が散るころ、唐突に僕は彼女の言ったことが嘘ではなかったのだと理解した。言い換えれば、それだけのことを理解するのに、僕は半年近い時間を必要とした。

 僕は携帯電話の機種を換えた。彼女の電話番号は古い携帯電話とともに消えた。

 

 恋人が出来たのは冬のことだった。その年はあまり寒くならない冬だった。僕はダッフルコートを着て街を歩いたが、人の熱気とそこかしこにある暖房のせいで熱いぐらいだった。ダッフルコートは一年前、冬から春への変わり目のバーゲンで買った安物で、にわかには信じられないぐらいの重さが特徴だった。僕はぶらぶらと歩きながら、コートを脱ぐかこのまま我慢するかを考えていた。実際のところ僕は一刻も早く脱ぎたかったのだが、脱いだら脱いだでまた、にわかには信じられないぐらいかさばるのがこのコートの悪いところだった。僕は真剣に悩んでいた。だから、初めは一体誰が誰に声をかけているのかなんて分からなかったし、ましてや自分に向けられた声だとは考えてもいなかった。

「ねぇってば。」と彼女は言った。そして同時に僕のダッフルコートの袖を引っ張った。僕は、彼女が言うにはようやく、振り返った。彼女は袖を強く掴んだままだった。ばり、という音がした。そうして、僕はコートを脱ぐことになった。繰り返すが、そのコートは安物だったのだ。

 彼女は中学校のときの同級生だった。二度同じクラスだったと、彼女は言った。一年生のときと、三年生のとき。僕は、あぁ、うん、と頷いた。そう言われればそうだったかもしれない、と僕は思った。久しぶりね、と彼女は言った。全く、と僕は言った。言いながら、僕は必死で彼女の名前を思い出そうとした。彼と別れたばかりなのよ、と彼女は言った。そう、と僕は言った。彼女は?と彼女は聞いた。秋に別れた、と僕は言った。なるほど、と彼女は頷いた。そして、名前ちゃんと覚えてる?と僕に尋ねた。うん、と僕は言った。そしてすぐ、ごめん忘れた、と僕は言った。彼女は笑った。そして、私も忘れたわ、と言った。僕は彼女の名前を教えてもらい、自分の名前を教えた。

 初めてのデートの時、僕はバーゲンで安いコートを買った。破れた前のコートに負けず劣らず、重くてかさばるダッフルコートだった。売場はもう半分以上、春物で占められていた。もともと冬らしくなかった天候は、ここにきてますます暖かくなっていた。かさばるコートを片手に持ち、もう片方の手で彼女の手を握り、歩いた。翌日、僕達は二度目のデートを迎えた。僕達は映画を観た。「ハロー・グッド・バイ」という映画だった。帰り道、蝶が飛んでいるのを僕達は見た。

 春はすぐそこだった。

 

「別れよう」と言われたので別れることになった。四月の頭のことだった。エイプリルフールかと僕は思った。そう思ってしばらくの間、ふつうの生活を送った。そう思ってしばらくの間、ふつうの生活を送った。ふつうに毎日朝起きて、夜眠った。普通にご飯を食べ、お茶を飲み、映画を観た。彼女がいないだけの、いつもの生活だった。

 

 夏休みに実家に帰った時、僕は埃にまみれた卒業アルバムを見つけた。僕は彼女の名前をなんとなく探したが、そこには載っていなかった。集合写真に写った顔を一つ一つ真剣に確かめたが、どれも彼女の顔ではなかった。僕は彼女の名前を思い出せなかったことを思い出した。そして彼女も。

 

 恋人が出来たのは冬のことだった。

 僕は毎日を繰り返す。毎日が誰に告げるでもなくはじまって、毎日が誰に告げるでもなく終わる。それ以上でも、それ以下でもない。僕は幸せだろうか。たぶんそうだ。彼女に出会ったのだから。僕は今から彼女と映画を観に行く。

 

2001/09/26

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この文章は小関悠が個人の立場で書いたもので、所属する組織などの立場や意見を示すものではありません。特に明記のない限り、この作品はフィクションです。

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