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17日間のこと

 僕は何も見ていない。だから、何かを失った時にそれが何であったのか分からない。

 

 例えば、目覚めは一つの消失である。

 ゆっくりと体を起こし、僕はベッドの上で立ち上がる。刹那、頭がふらふらとして、その反応に僕は驚く。天井は低く、寝癖で逆立った髪が少し触れる。ジーンズにTシャツという格好で、どうやら風呂にも入らず寝てしまったらしい。どうやら?僕はベッドに座りこむと、昨夜のことを思い出そうと試みた。もちろんそんなこと、いつもは意識する必要さえ無い。だが今に限って、僕は昨夜のことを何も思い出せなかった。何も。

 冷蔵庫のドアを開け牛乳パックを掴み出しパックの先に口をつけて一気に飲み干すと、頭のふらふらの具合が少し良くなった気がして心なしか視界もはっきりと見える。コンタクトレンズをつけると世界が変わる、と言ったのは僕のどの友人だったか。そんなことを考えながらも僕はゆっくりとベッドに再び座りかかりこの場における不思議を整理した。つまるところ、疑問点は二つだ。

 一つ目。もちろん、昨夜の記憶が無いこと。正確には、昨日の夕方以降。

 家から歩いて五分ほどの距離に小さく居を構えるイタリアン・レストラン「213」で遅い昼食をとったのが、覚えている限り最後に覚えていることだ。まわりくどい表現だけれども。おそらく、午後三時頃。テーブルに並んだスパゲティとドリアのハーフ&ハーフ・セットを見て、どちらを向いても炭水化物だな、という感想を抱いた記憶がある。そう、スパゲティはペペロンチーノで、少し辛みが強すぎたんだった。

 頭のふらふらの具合から、例によって二日酔いではないかと僕は勘ぐった。つまり、僕には呑みすぎるとすぐに記憶を無くすという悪い癖がある。不思議なことに、そういった時、記憶は呑み始めた頃からの分を失うのではなく、まだ呑んでいない時点まで少し遡って失われる傾向がある。またやってしまったかな、と僕は思いつつ、確固たる証拠の無い今はまだ認めないでいる。

 疑問点の二つ目は、ここに彼女がいないこと。

 彼女は文字通り僕の彼女で、付き合い始めてもうすぐ二年になる。これまでの二年間の大半を占める日々と、それぞれの一日における大半を占める時間を、僕は彼女と共に過ごしてきた。擬態語で言い換えるならば、べったり。

 僕と彼女は同じ大学の同じ学部に通う同じ学科、同じ専攻の学生で、加えて今目覚めたここ、彼女の家があるマンションに僕も住んでいる、ときている。常に側にいるから付き合い始めたのか、付き合い始めたから常に側にいるのかは、卵と鶏の如く、今になっては分からない。ただ、ほとんどの夜、僕達二人は一緒に彼女の家で眠った。何故ならばそれは多分、僕の家のベッドよりも彼女の家のそれの方が同じシングルサイズでも心持ち大きかったからだろう。

 時計を見るとまだ七時を少し過ぎた頃で、惰眠が趣味という彼女がここに存在しないことはますます不自然に思える。いつだって起こすのは僕で、起こされるのは彼女だったのだから。

 僕はくるん、と部屋を見回す。

 彼女の最新式の白い携帯電話、特徴は千件の電話帳を内包するメモリー容量と三十二和音、それから彼女の男物みたいな黒い財布が、彼女の無骨な黒い机の上にあった。特にいつもと変わらない、普通の朝の様相だった。

 彼女なら恐らく第一の疑問の答えを知っているはずだったが、その彼女の存在は第二の疑問そのものであり、第二の疑問の答えを知るには昨日の夜のことを思い出さねばならず、それは第一の疑問そのものだった。

 やれやれ、僕は彼女の携帯電話を手に取った。彼女がどこに行ったにしろ、携帯電話を忘れたことに気付けば自分のそれか僕のそれかに連絡をしてくるだろう。僕は着替えて顔を洗うと、彼女の家を出た。もしかしたら、僕の家の方にいないとも限らないし。

 

 ピロロロロ、ピロロロロという音が家の外にまで微かに聞こえてきたので僕は急いで鍵を開けて部屋に転がり込んだ。安マンションは大抵例外なく、防音に問題がある。僕は靴も脱がずに上がると、鳴り続ける電話に駆け寄った。

 昔、電話というのは大抵家の玄関にあったということを僕は思い出して、次に模様替えをするようなことがあればそうするのも悪くないと思った。そうは言っても、きっとしないのだろうけど。いつものことだ。僕が言うのも何だが、少し前の自分と比較すると成長した風に見えても、長い視点でみればほとんど何も進歩していない、というのが大抵の人間の実体なのだから。

 が、それはそれとして僕は受話器を取った。

「もしもし」若い女の声だった。聞いたことのある風な声でもあったし、そうでない気もした。だが、彼女の声ではないことは確かだった。僕は落ち着いて受話器を片手で持ったまま、もう片方の手で靴を一つづつ、合計二つ脱いだ。

「もしもし」もう一度、女の声。

「はいはい」これは僕の声。

「今、少しだけいいですか?」女の声。テンポは変わらない。特徴の無い声だ。

「良いですけど、あなたは誰ですか?」これももちろん僕。

「私ですか?私は私です」女。

「悪戯電話ですか?」僕。

「それは私が決めることではなくて、あなたが決めることです」

「なるほど」妙に感心して、僕は頷いた。

「それで、何の用ですか?」

「近い内に、あなたはコンパスを手に入れます」女の声はおだやかで、今にも化粧品のコマーシャルでも始めそうな雰囲気があった。

「何ですか?」

「コンパスです。地球の磁場を利用して方角を調べるものです」

「知ってますよ。N極が北ですよね」僕はまた少し強く頭がふらふらとし始めていることに気付いた。

「素晴らしい。そのコンパスを、あなたはあるべき場所に戻して下さい」

 そして、沈黙。

 順番から言えば、次は僕の台詞のはずだったが、僕はその電話が何を言おうとしているのか、さっぱり掴めないでいた。「素晴らしい?」って何が?

「分かりましたか?」耐えかねたのか、女性が言った。

「分かりません」僕は言った。そして、少し深呼吸。続いて、

「具体的にはコンパスを『いつ』『どこで』手に入れるのと、それを『どこに』戻すのかが分かりません」と息継ぎ無しに、言った。が、僕が言い終えると電話はすぐに答えを返してきた。出方を見切られていたようだ。

「前の二つは問題ではありません。コンパスはあなたが手に入れるのであって、それ以外の可能性はありません。最後の一つもあまり問題ではありません。あなたはそれを確実に知るのです。問題は知ったあなたがそれを実行に移すかどうか、です」

「なるほど」僕はとりあえず、頷いた。が、もちろん何も分かっていなかった。

「私からはそれだけです。それでは」

 そうして、電話は切れた。ぷー、ぷー、ぷー、という音だけが残っていた。

 そればかりは、いつもと同じ音だった。

 

 当初の目的というのは所詮当初の目的でしかない、というようなことを考えながら僕は家の中を落ち着かずにうろうろと歩いた。ここにはどうやら彼女はいない。風呂もトイレもクローゼットも食器棚も覗いてはみたが、どこにもいない。彼女はそんなに大柄じゃない方だが、かといってこの家に隠れることが出来る場所が他にあるとは思えない。そう思いつつも、僕は机の四つの引き出しを下から順番に開けていった。これはちょっとしたテクニックだが、引き出しは下から開けていけば、元に戻さずに全ての引き出しの中身を見ることが出来る。だが、そこにどれだけの意味があるというのだろう?彼女がもしこの引き出しの中にいたとしたら、僕の知っている時よりずっとダイエットを行ったか、体が幾つかに分断されているか、あるいはその両方か。それはどれも勘弁願いたかったし、実際そんなことは無くて僕は少しだけ安堵した。何にせよ、世の中は真の絶望よりは少しだけまともに出来ている。

 

 ピロロロロ、ピロロロロという音が再び家の中を跳ね回った。またあの女かしら、と僕は勘ぐりながら、受話器を取った。自分でも呆れるぐらいに何の気も無しに。

「もしもし」

「あぁ、今日いいかな?」男の声。

 有り難いことに今回は、その声だけで誰だかはすぐ分かった。男は僕の大学の先輩で、ノイズと呼ばれている。誰もがノイズと呼ぶので、本名は忘れてしまった。

「今日ですか?」僕。

「うん、今日」ノイズ。

 人は皆、フィギュア集めとか読書とかペットの飼育とか、何の役にも立たない趣味を持つ。だが、ノイズの趣味は中でも相当に役に立たない。彼の趣味は音楽鑑賞鑑賞だ。彼は誰か他の人が何か音楽を聴きながら食事をしていたり、いびきをかきながら眠ったり、ぶつぶつと独り言を垂れたりしているのを、録音して聴くことを楽しみにしている。彼の家には何十という彼のコレクションがDATで保存され、並んでいる。テープの背のラベルはこんな感じだ。『ナウ・アンド・ゼン/カーペンターズ/山中宏/山中宏邸/99年1月4日』『ミッドナイト・マロウダーズ/ア・トライブ・コールド・クエスト/畑見玲花/畑見玲花邸/97年12月14日』

 彼の主張する所によると、音楽鑑賞鑑賞の対象となるのは、彼に近しい人の方が好ましいらしかった。彼の表現をここに引用すると「比熱の問題だよね、自分の知人の方が熱いのは間違いないんだ」そして彼の知人達の中でも、この僕の音楽鑑賞を鑑賞するのは、とても「熱い」ことらしかった。

「熱い」とはどういう意味なのか、僕の音楽鑑賞が他の人のそれとどう違うか、もう少し詳しい説明を以前彼に求めてみたことがある。彼は少し悩んでから「疾走感かな」と答えた。僕はそれ以上追求することをやめた。

「今日はだめなの?」僕が黙っていたので、ノイズが言った。

「今日はちょっと」僕は精一杯の声でそう言った。

 ノイズはほぼ常に穏やかな人間だが、その「穏やかな」の前に付く「ほぼ常に」は決して消えない種類の人間でもあった。つまり、何より彼自身が相当に「熱い」のだ。

「どうかしたの?」

「どうってわけではないんですけどね」煮え切らない。

 沈黙。どれだけ続いたのかは分からない。だが終わってみれば一瞬、人生と同じだ。

「そう、じゃあ今日はやめとくよ」

 そういって、僕の返事を待たずに電話は切れた。そういう男だ。

 僕は溜息を一つついた。シャワーを浴びたい所だ。頭を冷やす必要がある。

 このマンションは八畳という割には狭く、防音も悪く、キッチンも小さくて使いにくいものだったが、風呂とトイレは別の、いわゆるセパレート・タイプであることが僕を決断させた。入浴は人間を幸せにする。何故なら生き物は皆、かつて海で漂っていた記憶をどこかに抱いているからだ、という話をどこかで聞いた記憶があるが、別にそんなことを信じているわけではない。ただ、何となく昔から好きなのだ。

 僕は裸になるとおもむろに風呂に入り込み、やっぱりシャワーだけでなくきちんと浴槽につかることにしようと思って、湯を浴槽に溜め始めようとしたのだが、最近は主に彼女の家の方で入浴を行っていたせいか、あるいは自分の家でもシャワーばかりで済ませていたせいか、浴槽はあまり衛生的な状態とは言えず、僕は裸のまま浴槽を洗うという選択肢と、シャワーで済ませるという当初の選択肢と、一度外に出て服をまた着てから浴槽を洗うという賢明な選択肢と、風呂に入ることそのものを諦めるという投げやりな選択肢の四つについてそれぞれの利点や問題点を比較し、結局裸のまま浴槽を洗って、風呂から上がる頃には僕は少し風邪気味になってしまっていた。

 時計は八時を示していた。この一時間で僕が何をしたというのだろう、そんなことを考えると僕はいつも生きて行くことが嫌になる。死ぬ直前、僕はきっとこう考えるのだろう。この人生で僕が何をしたというのだろう、と。だが、それはまぁ、とりあえずは先の話だ。

 冷蔵庫の中は壊滅的状況で、僕は服を着ながら、食料という食料を何か買い出しに行くことを決意した。彼女の家の冷蔵庫には何かあったはずだが、それに手を出すのは、普段ならよくやるはずなのに、そして彼女も何も言わないのに、何故か今日はためらわれた。ちゃんとした理由なんてないさ、機械じゃないんだし。僕はそう嘯きつつ、家を出た。

 

 冬は生き物が生活すべき時期ではない。植物の多くは冬の間に死に絶え、その種を春への希望として残す。一部の動物は冬が訪れる前に食料を溜め込み、本格的な冬の間はその活動を止める。彼等は僕達よりも頭がいいに違いない。愛用のダッフルコートを羽織りつつ、僕はマンションの玄関から道路に伸びた階段を一段一段下りた。薄い氷が階段に心細く張り付き、足下はつるつると不安定で、手すりを用心深く握りしめながら一段、また一段と。どうして自分の家から出たすぐそこで、こんな生命の危機を感じなければいけないのか僕には分からないのだが、誰に不満を言えるわけでもなく、僕は結局最後まで一つとして飛ばすこと無く、慎重に慎重を重ねて一段ずつ下りきった。

 二月の十七日。それがその日だった。天気予報が言うには冬はもう終わりかけているらしかったが、毎年のことながらそれがその時本当にそうであったのかは、実際に終わってみるまで分からない。ただ、空は大方、黒い雲に覆われて、今にも雨か、あるいは雪でも降りそうなふうに見えた。

 

 命からがら脱出した家から早足の僕が三分程歩いた所にコンビニエンスストア『ジャム』は存在する。『ジャム』は僕が住む街だけでやたらにそこらで見かける小規模チェーンで、裏を返せば他の街では一度も見た記憶が無い類のものだった。そして、広くは無い僕の生活圏内にさえ数店存在する『ジャム』中で、生命線とも言える店がここだった。但し二十四時間営業ではなくて、深夜の二時から六時までは閉店してしまうのがたまにきず。例えば深夜にふと目が覚めて、何だか小腹が空いたのだけどもいつものように壊滅的状況の冷蔵庫を覗いた時など、あの『ジャム』が二十四時間営業ならなぁ、と悔しげに感じることが、ままある。

「いらっしゃいませ」

 自動ドアが開いて白赤で彩られた『ジャム』の制服を着た店員がレジの方から声をかけてくる。毎日の同じコンビニエンスストアに通い詰めていると、嫌でも店員の顔と名前を覚えていく。今日は高崎さんと港さんだ、と僕は考えるわけでもなく、自然にそう思う。

 あまり他人に会わない時期、例えば大学の夏休みなどは一日の間で会話がコンビニの店員相手だけだということもある。「お弁当温めますか?」「お願いします」ザッツ・オール、サンキュー。そんな僕を救ってくれたのが、きっと彼女なのだろうとも思う。だけが、とりあえず今は彼女のことは考えないようにする。

 何を買いに来たんだっけ?と思った矢先にお腹が鳴った。ごぅるぅ、という音だった。何て予定調和的な。でもそう、食料だ。僕は今日発売の購読雑誌が無いことを軽く確かめてから、50円のクロワッサンを二つと、牛乳を一本買った。高崎さんはいつもの無愛想な笑顔で「304円になります」と言った。十分な一円玉も五円玉も十円玉も五十円玉もとっさに見つからなかったので、僕は五百円玉を高崎さんに渡し、かわりに多くの小銭を得た。

 僕の財布はいつもどこから侵入したか分からないレシートと、数多くの小銭で溢れている。僕自身はあまり気にならないのだが、彼女は僕のぱんぱんに膨らんだ財布を見る度に溜息をつき、その溜息をいっぱいに吸い込んでから僕もまた溜息をつくのが、いつものパターンだった。

 

 僕と彼女が住むマンション『ハイツB』は五階建て各階二十戸前後という、割と大型のマンションだ。主な特徴は先も言った通り、セパレート・タイプであること。そして、玄関のオートロック機能。僕はここに引っ越して来た時に初めて、思い出したようにその存在を知ったが、僕の彼女を含めてこのマンションに住む多くの人はそれ目当てにこのマンションを選んだ、そうだ。「オートロック無しなら、もう一畳広くて五千円安いマンションがあったのに」と彼女は言った。僕は最初に訪れた賃貸業者が最初に見せてくれたマンションがここだった。だがごらん、結果は同じ。

 つるつる滑る階段の前に僕はまた来ていた。憂鬱は繰り返される。僕は足下を気にせず、前を見た。空はますます暗さを増していた。

 目前、マンションの玄関にその女はいた。郵便受けの前に立ち、何かを誰かの郵便受けに入れていた。郵便屋には見えなかった。何故なら上半身は真っ白、下半身は真っ黒で統一されていたからだ。郵便屋の制服がモノトーンを基調としたものに変わったというニュースは聞いていない。もっとも、最近のニュースなんてほとんど知らないけれども。

 少しずつ距離が近づくにつれ、その黒と白は非常に徹底されていることが明らかになった。真っ白の帽子を被っているので、髪の色が分からない。袖から見える女の腕は真っ白で、その先にはやはり真っ白なポーチを持っていたが、女はそれが下半身の黒のゾーンに入らないようにか、一つ一つの行動をとても慎重に行っているように見えた。

 僕が階段を登り終えると、女はこちらを向いた。気付いていたのだ、と直感的に僕は知った。女は僕の眼を見て、何故かにっこりと笑った。疲れた老人が見せるような笑顔だった。そしてマンションの奥へと歩き初めオートロックを慣れた手つきで開くと階段を登ってどこかへ消えた。僕は何だか呆気にとられつつ、のそのそと自分の郵便受けの前まで歩いた。そしてようやく、僕は気付いた。さっき女が触れていた誰かさんの郵便受けというのは、まさしく僕のそれだったということに。ダイアル式になった郵便受けの鍵を今更ながらに慌てて回して、僕は郵便受けを開いた。中には小さな、そして当然のように真っ白な包みが入っていた。雨がぽつり、ぽつりと降り始めていた。

 僕は、それを開けた。

 

 

 自分で言うのも何だか、僕には信頼できる友達が少ない。

 何故かと言えば、しかし僕自身がやはり誰かをあまり信頼しようとしていないからだ、とは思っているものの、そのことに関して自信はあまりない。ただ一つ間違いないのは、僕が誰かを信頼しようとしても、やっぱり信頼に足る友達が出来なかったら、僕にとってはなかなかの悲劇だ、ということである。

「君子危うきに近寄らずだよ」僕がそう言うと、この家の主は鼻で笑って「友達ってそんなに危ういものかね」といつも通りの淡泊さで答えた。

 発言者の名前は井上祥子。ありふれた名前なので僕は辞書と読んでいる。理由は明快で、辞書の家には所狭しと各種辞書・辞典が並んでいるから。「知識魔だね」と辞書は自分自身の性格について語っている。辞書は僕や僕の彼女と同じ学科のクラスメイトで、やはり僕達と同じく『ハイツB』に住んでいる。お互い用心深いせいか、うち解けると言えるまでには随分と時間がかかり、こうやって辞書の家でだらだらと過ごすようになったのはごく最近のことだが、ごく最近になってからは電話をすることもなく放課後の小学生のように家まで出向いては一緒に時間を潰したり、つれなく追い返されたりして、時には僕と彼女と辞書の三人でどこかで美味しいグラタンを食べたり、ストロガノフを食べたり、ずいぶんと親しくしている。

 端整な顔立ちをしているが、あまり特徴の無い雰囲気で、加えてちょっと低血圧気味に見えて、また実際に低血圧で、恋人がいるとかいう類の噂は聞いたことが無かった。だいたいいつも家にいて、普段何をしているのかは分からない。趣味はといえば辞書を読むことと、辞典を読むこと、それから何故だか詳しくは知らないけれども演劇。

 辞書の優れた所は、むやみに他人を信頼しない所で、これは僕のような人間にとってとても心地よい特性である。辞書は辞書に書かれていることしか信用しないし、辞書に載っていないような出来事に関してはそれが辞書に載るか、誰もが忘れてしまうまでじっと待つ。だから辞書は僕と同じく、信頼出来る友達が少なくて、それをあまり何とも思っていない用に、少なくとも表面上は見える。

 

「で、これがその、」

 辞書はそのいかにも紙をめくることに特化した形の細長い指先でくるくると弄んだ。

「うん」僕は言った。

 白と黒の地味なコンパス。先ほど手に入れたばかりのそのコンパスが、真っ白な包みに入っていた唯一のものだった。

「どうしよう」僕は言った。疑問形にするつもりだったが、そうはなからなかった。深刻さが欠如しているからだ、と僕は自己分析をした。

「警察に届ければ」辞書は言った。辞書はいつも正しいことを言う。だから僕は「そうか」と辞書に聞こえないぐらい小さな声で一人納得したふりをした。

 それから、二人は何も喋らなかった。彼女のことを話すのは躊躇われた。辞書ならば何らかの手助けをしてくれることは間違いなかった。だが、彼女のことを口にした途端、僕はそれが疑いなく現実となって襲いかかってくるのではないか、という錯覚に恐れを抱いていた。もちろん、それは既に現実となっているのに。

 辞書は辞書で熱心に何かを読み、僕は僕で何となく手元にあった小説を読んだ。聞いたこともない日本の作家が書いた「忘れかけた昨日」というタイトルの短編集だった。

 僕と辞書の場合、これはよくあることだ。二人はとかく沈黙が重荷になる、という類の話好きではなくて、自分の時間を自分でちゃんと、もしくはそれなりに有効利用出来る。だから今日はこのまましかるべき時が来れば、いつもみたく僕が思い出した風に立ち上がって、礼と別れの挨拶を言って帰路につくのかな、と考えていた。

 未来予想は当たらない。辞書が、突然に言った。

「これ、変だよね」

 僕は相変わらず同じ小説を読んでいる。表題作は養豚場行きのトラックから転げ落ちた豚がタイヤの跡を辿って行くという話で、端的に言えば面白かった。だからというわけでも無いのだろうけど、僕は辞書が何を言っているのか分からなかった。

「何を?」僕は言った。

「何を?」辞書は僕の問いを繰り返した。

「何を?じゃなくて、何が?じゃない?」辞書は器用に疑問形の抑揚を繰り返した。それは見事だったが、何しろ僕には何が何をなのか分からないわけで、どうとも返事をしかねていた。辞書はそんな僕の状態を見抜いて一人で喋り始めた。

「このコンパス、北を向いていない。西を向いてる」

「狂ってるの?」僕は言った。

「そうかもしれない。きっとそう。でも、だとしたらすごく狂ってる」辞書は言いながら僕に返事をする隙も与えず、コンパスを手のひらの上に載せて僕の前に突き出した。

「磁石ね」辞書はいつの間にか机の上にあったそれをもう片方の手に取ってみせた。こういう時、辞書はどこか小学生向け教育番組の先生の様相を見せる。

「近づけるわよ」いちいち辞書は言う。僕はただ、見守った。

 磁石はゆっくりと、コンパスに近づいた。だがコンパスは何かの信念を守るかの如く、微動だにしない。磁石はそのまま、宇宙ステーションにドッキングするシャトルのように静かにコンパスに寄り添った。かち、と音がなって二つは触れあった。だが、コンパスはあらぬ方向、さっきと同じ西を向いたままだった。

 僕は辞書を見た。辞書は神妙な顔で僕の顔を見ていた。

「ヒントになるかしら?」辞書は言った。

 僕は答えた。

「どうしよう?」

 

「わたしはひとりなの」と彼女は言った。

 僕と彼女が知り合った日のことだ。入学式当日に行われたクラスコンパ。周りは騒がしく、あまりお酒を飲まない僕は大部屋の隅っこで何となく向かいに座っている彼女の話を聞いていた。あくまで初めは何となくだった。

 何を言っているのか、僕には分からなかった。確かに君は一人だろうし、僕だって一人だろう。世界には同じ顔を持つ人間が三人はいるらしいけど、それだって逆説的に言えば同じなのは顔だけじゃないか。

 あるいは、君が独りぼっちだって言うなら、それでもやはり僕だって独りぼっちだろうし、だいたい大学が決まって不慣れな街で下宿を始めたばかりの人間が独りぼっちじゃないなんて、ちょっと羨まし過ぎる話じゃないだろうか。

 けれども、僕は分かっていた。その時はまだ、彼女が何を言っているのかは分かっていなかったけれども、何かを言いたいのだということは分かっていた。それはつまり、僕が安易に用意出来るような答えを彼女は求めているわけではない、ということだった。だから僕は、その答えを探し出すのに戸惑った。賢明にも。

 

 彼女の家に一人でいると、何となくそんな昔のことを思い出す。自分の家に一人でいると、何も考えなくなる。どちらが良いのかは分からないが、分からないからこそ、僕は二つの家を交互に行き来して彼女の帰りを待っていた。毎日毎日。

 

 彼女の両親は彼女が七歳の時に離婚した。あのコンパの日、僕が何と言うべきか苦しんでいると、彼女が唐突に語りだしたのだ。離婚の詳しい理由は彼女も分からない。ただ、浮気とか愛人とかいった単語は一度も耳にしなかった、と彼女は言う。ただ二人とも、覚えている限りとても秘密主義だったそうだ。

 ゆっくりと氷が溶けるように時間を重ね、おおむね離婚が確定的となった時、二人の秘密主義者は自分の娘、彼女のことを思い出した。そして数多くのホームドラマと同じように、子供の今後に対して自分がどれだけ関わることが出来るかという権利について、二人は長く激しい議論を始めた。それは私のすぐ側で毎日のように行われた、と彼女は淡々と語った。夕食の時間、私が茹でたてのカルボナーラを食べている時でも、二人は同じテーブルで議論を続けた、と。ただホームドラマと違うのは、決して二人は養育権を奪い合っているのではなかった、という点だ。つまり二人は、養育権を「譲り合っていた」。二人は既に「新しい人生のプラン」(両親とも実際にそう言った、と彼女は言う)を心に決めており、どちらのそれにも彼女は組み込まれていなかった。「困ったな」と彼女の父親は言ったそうだ。「そうね」と言ったのは彼女の母親。残念ながらもう十分に状況が飲み込める年齢になっていた彼女は、殺されるかもしれない、と思ったらしい。

 

 彼女は殺されなかった。かわりに、ひとりになった。七歳から彼女は法的には母親の下で、実際には誰もいない2LDKのマンションで、一人暮らしを始めた。

「いろいろ大変だったけど、」彼女はとても静かな声で言った。

「どうやら出来ないことではなかったみたいね」

 時々、父親が家にやってくることがあった。初めは一週間に一度ぐらいの頻度で。会うといつも彼はただ「元気か」とだけ尋ねた。そして彼女は必ず「うん」とだけ答えた。万一病気にかかるようなことがあるとややこしいことになる、と両親は考えたらしい。母親でなく父親が現れるのは、二人の間で養育権を取るか、時々の訪問を取るかで協定が結ばれたからだ、と彼女は言った。

「そう聞いたの?」そう尋ねると、彼女はただ力無く首を振った。僕の隣に座っていた男が酔いに負けたか突然倒れかかってきた。ここがコンパの席であることを唐突に思い出したが、僕はその男を見もせずに払いのけ、また忘れた。当然僕は知らなかったが、その男は新入生ではなく、同じ学科の先輩代表としてこの場に単身乗り込んで来た厄介者だった。僕はその時まだ彼の名前を知らなかったが、彼は泥酔状態でありながら何故か僕に払いのけられたことを覚えていて、後日僕の下を訪れ、加えて人生にありがちなちょっとした紆余曲折があって、何とか友人と呼べる間柄になり、今では僕の音楽鑑賞を熱心に鑑賞するまでになった。だが、とりあえずそれは関係無い話だ。

 彼女の父親は正確に少しずつ、逆再生のスローモーションで見たマラソン選手のように、彼女から離れていった。中学に入る頃には、彼女の父親は月に一度も訪れなくなった。そして高校に入ってすぐ、遂に父親は「何か特別なことがあれば連絡をくれ」と電話番号だけを残して、彼女の前から姿を消した。

 大学が決まった時、彼女は初めてその番号にかけてみた。つい先日のことだ。特に意味はなく、と彼女は説明の中で三度言った。もちろんそれは彼女にとって大きな冒険だった。だが、実際にその電話に答えたのはコンピューターの音声で、それは「おかけになった電話番号は現在使用されておりません」と冷たく言い切った。

 そんな状況になっても毎月、一定かつ多額の金銭が彼女の口座に振り込まれることだけは変わらなかったそうだ。「娘思いなのよ」と彼女は言った。毎月25日に振り込まれるそのお金を彼女は「手切れ金」と言った。

 これは彼女と付き合い始めてから知ったことだが、その「手切れ金」は本当に大したものらしかった。僕の知る限り、彼女は何かを買ったりする時に躊躇したり諦めたりすることは決して無かった。お金で手に入るものなら、彼女は何でも欲しい物は手に入れた。指輪やネックレスから、ワイン、29インチ・フラットテレビまで。そしてある時点からは、僕の知る限り、というのはほぼイコールで彼女が生活そのものだった。少なくとも僕はそう信じていた。

 彼女がまた何か目新しく無意味な物に目を輝かしている時、何度も僕は何か言ってあげたくなったものだった。ちょっとした人生の苦言とでも言うべきものを。だがそんな時、彼女は必ず先手を打って「これぐらいしてやってもいいはずだわ」と言った。「私をひとりにしたんだもの」

 幸か不幸か、コンパの席の僕はまだそんなことまで知らなかった。彼女はただ、だいぶ頬を赤く染めながら「今や、接点は、あれだけ、か」と言った。あれ、とはお金のことらしかった。酒が回ってきたらしく、ずいぶんと不明瞭な口調が増えてきて、僕はますますその言葉に注意深く耳を傾けていた。

「もしくは、残してきた家、か」

 彼女の家は、九州にある。彼女はその2LDKをどうすることも出来ず、ただ忙しい月曜日の朝にゴミ袋を片手に慌てて出ていくようにその家を出て、以来そこはたぶん誰も足を踏み入れていない、ということだった。この世のどこかに誰も訪れない2LDKがあるかと思うと、僕は少し奇妙な気分になった。飼い主を失った犬がそれでも主人を待ち続けたみたいに、彼女の家は九州で誰かの帰りを待ち続けているのだろうか。

 

 彼女が特異だったのは、その浪費癖を除くと、あまりにまともだったという点だ。僕は彼女以外に何人も幼い頃に両親が離婚した例を知っているわけではなくて、その点では恐らく他の人達とも何ら変わりが無いと思うのだけれども、少なくともその僕が見る限りにおいては、彼女は実にまともだった。ホームドラマではこういう時子供は悲劇のヒロイン(あるいはヒーロー)となることが約束されているのだが、彼女はそうはならなかった。だから彼女はそういった事情から乖離して生きていくことが出来たし、だから彼女はまともでいることが出来たとも言える。

 彼女は一度だって泣かなかった。感傷的に生きることを誰よりもまず彼女自身が拒ん

だ。

 

 

 彼女が消えて、丸五日がたった。僕はその朝をやはり彼女の家で迎えた。

 目覚めると、彼女が横にいる。そんな、ごく自然に捉えていたこれまでの日常が今ここに存在しない、ということを追認する度に、僕は頭の中がきりきりと痛んだ。机の上にある彼女の男物っぽい財布、僕が開けたままの引き出し、飲みきった空の牛乳パック。僕が触れない限り、それらはそこにあり続けている。それが何よりの不安だった。無生物は自力で動けないんだな。それとも、汚れたシャツは独りでに洗濯機に逃げ込むものだとでも思っていたのだろうか?僕は。

 コンパスはただ西を向いていた。この家に戻ってから僕は何度と無くそのコンパスを覗いてみたが、それは常に西を向いていた。まるで西になにかあるとでも言いたいかのごとく。

 

 

 彼女が消えてから七日目、僕はスーパーで女を見た。それは家から一番近いスーパーで、自転車で五分ほど西に行った所にある。女はやはり白と黒だった。前に会った時と違うのは、上半身が真っ黒で下半身が真っ白であるということ、それからやはり黒のサングラスをしている、というぐらいだろうか。女はゴロゴロと買い物カゴを押しながら、野菜売場を流れるように歩いて、レタスやら人参やら黒くも白くもないものを順番にカゴに入れていた。夕食向きの買い物客でごったがえしていた店内でも明らかに目を惹く格好だったが、他の客はまるで気にせず着々と自分達の買い物を押し進めていた。僕は何気なくその女に近づこうと、生活雑貨のコーナーを抜けて冷凍食品の並べられたあたりで待ち伏せした。女は僕の顔を見ると瞬間だけ驚いた表情をみせて、にっこりと笑った。サングラスの陰から覗いたのは、またあの老人のような笑みだった。

「第一の疑問は、」僕は言った。

「どうしてあなたのそのセンスに誰も注目しないかということです」

 女はまだにっこりと笑っていた。近づいてみて分かったが、女はとても若かった。僕の眼に狂いが無ければ、十八か十九、あるいは僕と同じくらい。

「時々、世の中が嫌になったら、私はいつもこんな格好をするんです」女は言った。

「口調もちょっぴり変えてね。ちょっとした趣味なんです。知っている人に会っても気付かれないというのは、なかなかスリルがありますよ」

「すみませんが、あなたの趣味の話を聞きたいわけではありません」僕は言った。

 だが、女は聞かなかった。

「あなたに会ったこともあります。普通の格好の時もあるし、今のような時も。あの時はあなたと同じレジで精算をしていたのですけど、覚えは?」

 僕は答えなかった。

「他人というのは、自分の視界に入ってきて初めて気になるものです。あるいは、」

 女はここで初めて少し真面目な顔をした。その肌は、陳腐な表現をすれば透き通るように白く、化粧気をまるで感じない。

「人間というのは、自分の視界に入るものしか気にならないものです」

 僕の消えた恋人が言った不条理な文句の一つに、化粧についてのものがあった。彼女は僕とつきあい始めるまで化粧なんてものは一つもしなかったそうで、それでも十二分に美しく白い肌を備えていたそうだ。だが、それ以上を望んで化粧を始めたとたん、肌の荒れを経験し、徐々に肌の魅力が失われてきた、というのが彼女の主張だった。僕は彼女の肌も十分に綺麗だと思ったし、僕は彼女に化粧をしてくれと言ったことも無いので、そんなことを言われた時にはただ苦笑してみせるしかなかったが、それでも彼女にとってはどうにも真剣な問題だったそうだ。

 なるほど彼女が大学に入る前は、こんな肌をしていたのかもしれないな。僕は思った。が、口をついて出た疑問は全く別のことだった。

「電話をしてきたのは、あなたですか」

 だが、そう言い終えるか言い終えないかの完璧なタイミングで、女は消えた。正確には、買い物客が歩く何と無い流れから外れ、インスタントフードのコーナーへと進んでいった。慌てて追いかけようとしたが、女が悠然と歩く一方で僕は人の波に一つずつ丁寧に引っかかり、二人の距離はどんどん開いた。そして、女は買い物カゴを押したままスーパーの外へと消えた。僕はただそれを眺めていた。僕以外には誰一人見ていなかったらしく、誰も女の非常識な行動を注意しようとしなかった。

 僕はコンパスに目をやった。そんなつもりは無いのに、何故かいつも持ち歩いている気がする。コンパスは、西を向いていた。また西だ。僕の家から西のスーパーから更に西。この延長線上に何かあるのだろうか?あるいはこの毎日の延長線上に。

 

 

『ジャム』の隣に、小さな文房具屋がある。文房具屋というか、薬店というか、ちょっとした化粧品やら雑貨も並んだ、節操のない店だ。店の名前は分からない。見る限り、どこにも名前らしきものは書いていない。僕はコンビニでは売っていないような細々としたもの(方眼紙、ボールペンの替え軸、指用に特化した絆創膏)を、だいたいその店で買う。

 彼女が消えて二週間と少しが過ぎていた。正確には何日だったか、初めの頃は足を止めればその数字がすぐに頭に浮かんできたというのに、ここ数日の僕は何の苦労も無く、彼女に出会う以前のような毎日を、毎日繰り返して生きている。とは言え僕と彼女は大学に入ってすぐに出会って付き合い始めたのだから、そのような毎日は実に新鮮に過ぎていった。良いことなのか、悪いことなのかは分からないけれども。

 文房具屋には、いつもと同じおばさんが、いつもと同じように椅子に座って壁に置かれたテレビを観ていた。「白地図ってありますか?」僕は言った。おばさんはいかにも大変そうに椅子から立ち上がって、無言のまま僕の横の棚を指した。僕は棚から今ここの地域を探しだして、買った。150円だった。

 

 計画というほどでもないこの計画を初めに話した相手は、辞書だった。昨日の夜、例によって何の前触れもなく辞書の家に行った時のことだった。辞書はいつも以上に低血圧だった。

「こんなことってありうるかな」僕がそう言い終わると、辞書はこう答えた。

「無いことも無いんじゃない」そしてこう続けることも忘れなかった。

「こんな世の中なんだし」

 僕はそれで満足した。そして、辞書の家を出ようとした。辞書が声をかけてきたのは、僕が靴を右足から順番に履いている時だった。

「最近、彼女を見ないわね」

 僕は振り返らずに言った。

「旅行に行ってるんだよ」

 辞書は何とか僕の耳に届くぐらいの大きさで「そう」と言った。あまりに力のない声だったので、僕は危うく振り返りそうになった。だが、もちろん、そんなことはしなかった。そして、やはりとても小さな、すすり泣くような音。ひょっとしたら、辞書は泣いていたのかもしれない。何故だかはその時には分からなかったが、愚鈍にも。

 

 このコンパスはある法則に従って動いている。それがこの二週間でようやく得た僕の結論だった。北は向いていないけれども、どこかには向いている。その証拠に、一箇所に置かれたコンパスはまずゆっくりとどこかを指し示して、それから決して他の場所へと揺れ動かなかった。

 僕は文房具屋から出ると、コンパスとさっき買ったばかりの白地図を取りだした。コンパスは南西を指している。僕は地図からこの文房具屋のあたりを探し出して、そこに南西向きの矢印を付けた。そして、地図を背中のリュックサックに、コンパスをポケットにしまった。それから、僕は颯爽と自転車に乗って走り出した。もちろん、南西に向かって。

 

 信号に遮られると、僕はコンパスを見た。隣にいた小学生が、不思議そうに僕を見た。空は青く、思い出したかのように暖かな天気だった。白い雲がまばらにふわふわと浮かんで、残りはひたすらに青い空だった。僕は、太陽が沈んでも目的のものが見当たらなかったら諦めようと、決めていた。僕は腕時計を見た。十時半。何を探しているのかは相変わらず分からないままだったが、何かを探さなければならないということは、どうも間違いなく事実のようだった。

 コンパスは南西や北西に浮気しながら、概ね西を向いていた。

 僕の住む街は盆地にある。ぐるりと四方を見渡すと、どの方向にも切れ目無く山があることがすぐに分かる。そう大きくないその盆地の中央から少し西に寄った所に、僕と彼女の通う大学があって、もちろん『ハイツB』もその側にある。だから、自転車で西へ走ると、すぐに山にぶつかる。

 十一時十八分、実際に僕は山の麓にぶつかった。コンパスは、それでも西を向いていた。それは十分に予想出来たことだったが、僕はやはり自転車から降りる時、少し溜息をついた。この山がどれだけ険しいのかは、地元育ちではない僕には分からない。もちろん登山家が意気込んで望むような種類の山であるはずもなかったが、僕の山登り経験といったら中学校の遠足以来で間違い無いはずだった。

 麓近くに、コンビニエンスストアがあった。『ジャム』ではなくて、全国区のチェーン店だった。そして入るなり「いらっしゃいませ」と声をかけてきた男は、どうも僕のクラスメイトらしかった。名前は知らないけれども、講義で隣になったことはあったかもしれない。僕はそこでパンを三つとペットボトルの紅茶を買った。レジで向かいに立ったクラスメイトはやはり僕に気付いたようだったが実際は「千円お預かりします」と口にしただけだった。それでいい、と僕は思った。「何をしているの?」なんて聞かれたくなかった。

 僕は店を出た。嘘みたいに雲は一つ無くなっていた。べったりと塗られた空の青が古いテレビゲームのようだった。僕は紅茶を一口飲むと、自転車をそこに置いたまま山へと向かった。

 

 山は静かだ。都会の喧噪、なんていうほどの都会でも無いが、それでも山の静けさは一回り、二回り違う。山を越える道路が向こうに見えたが、コンパスは違う方向を向いている。仕方なく僕は獣道と歩道を足して2で割ったような、アスファルト舗装のかけらも無い道を歩いた。

 太陽が高く昇り、僕の体を照らした。一方で木々は静かに冬の冷気を僕に伝えていた。こんな所で僕は何をしてるのだろう?そうは思ったものの、口には出さなかった。聞いてくれる相手が誰もいなかったから。コンパスだけが、僕の相手をしていた。あちら、次はこちらという風に。道といえなくも無いような道を節操無く歩いた。まるで自分が神話の時代の人間になった気がした。例えが大袈裟なのは、こんな遠足は初めてだからかもしれない、と自分で納得した。

 ぴぴん、と腕時計が短く音を鳴らした。あっという間に正午だった。僕は適当な木にもたれかかって座り、さっき買ったパンを取りだした。とりあえず、メロンパン。必要以上の甘味が口内に広がった。旅はまだまだ続くかに見えた。

 がそん、ごそん、という音と共に、影が動いた。立ち上がって、僕は影の方を見た。「アライグマ」声がした。影とは全く反対の方向から。女がいた。黒と白の女だった。もっともその時の女は真っ黒に着込んでいて例の黒いサングラス、更には黒い鞄を持ち、葬式の帰りとでもいうような格好だった。だが、それが黒と白の女であることはすぐに分かった。

「元来、日本にはいないそうですよ」女は僕を見ずに、先程まで僕が見ていた影の方を向き続けていた。僕は振り返って、その視点の先を確かめた。アライグマがいた。どこから手に入れたのか、小さな林檎を食べていた。

「何をしているんですか?」僕は再び女の方へ振り返った。

「ペット用に輸入したものを捨てたせいで、野生化したものがこんな風にいるみたいですけど」

「何をしているんですか?」僕は辛抱強く、再びそう言った。

「あなたは何を?」

「質問に質問で答えないで下さい」僕は言った。女は眉を寄せ、少しだけ困ったような表情を見せて「約束があるんです」とだけ、言った。そしていきなり女は歩き始めた。とても素早く、スーパーで見失った時と同じ華麗さを備えながら。突然の行動に驚いたか、アライグマはまた影になってその場から消えた。林檎の芯が少しだけそこに残っていた。僕はといえばメロンパンをリュックに押し込みつつ、急いで女を追った。

 女は僕の視界の限度を見極めているかのように、何とか後を追えるぐらい先を、ゆらゆらと歩いていた。この現代において、道というにはあまりに荒い道を一向に気にせず。視線の先に現れたり消えたりする女を捕まえようと、僕は必死に歩いた。走ろうともしたが、それは足下にある草木や蔦が許可しなかった。今日、これまでの何度とも同じように無意識的に、僕はコンパスを見た。それは女の歩く先を指していた。一種のガイドなのかもしれない、と僕は思った。ボランティアで、それ故に辛辣な。

 突然、ガイドが立ち止まった。僕は止まらず、歩く。十秒以上して、僕は女のすぐ後にまで辿り着く。女は僕を一向に気にせず、向こうを向いていた。僕は荒い息を沈めてから、女の向いている方を見る。

 そこは、墓地だった。

 周囲をうっそうと茂った木々に囲まれながら、空だけは何も遮るもの無く、変わらず暖かな日差しを差し込んでいた。僕は女を省みたが、女はただ墓の方を見守るのみで何も語ろうとも動こうともしなかった。僕はコンパスを見たが、コンパスはただ目前に広がる墓地の方を指し示すだけだった。

 僕は歩き始めた。墓地の方へ踏み出すと、コンパスの動きが慌ただしくなった。僕はそれを注意深く見守り、これまでと同じように従って歩いた。

 墓は、どれも一様に寂れていた。寂れた墓、という表現があるならば。蔦がその足下に絡みつき、中には頭の方まで覆われたものまであった。どれだけの間見捨てられればこんな風になるのだろう、と考えて僕はその墓標を覗き込んだが、どうやら大体僕が生まれた頃に死んだ人間のものらしかった。

 そして、それは一番奥にあった。コンパスはそれを指し示していた。ぐるりと僕はそれを一周したが、コンパスは常にそれがある方向を向いていた。このコンパスにとって、それが北極点であるかの如く。それだけが石の墓でなく、土塊だった。周囲の地面より一際暗い、黒い土塊。そしてその前にだけ白い花と、線香が供えられていた。

 女が現れ、鞄の中から新しい花を出した。何という名前の花なのかは分からなかったが、小さくて白い、綺麗な花だった。

「あなたは誰なんですか」声を出して初めて気付いたが、今にも喉が枯れそうだった。

「彼女のクラスメイトです」女は言った。

「あなたのクラスメイトでもある」そうして、女は一つ深呼吸をした。深い深いものだった。

「彼女の友人だったのか?」僕は言った。

「丁寧語が消えたわね」女は咄嗟に言った。そしてまた深呼吸。空気と言葉を置き換える装置が体の中にあるみたいだった。

「私の感覚で言えば、彼女は私の友達でした」それから女は僕を見た。記憶にない眼をしていた。

「今となってはそんな言い方しか出来ませんが」

「彼女はどうした?」僕は女の言葉を最後まで聞かずに言った。

「私が誰だか分かりますか」女は言った。

「何を言ってるんだ?」僕は言った。限界だった。ここに答えがあると信じたかった。

「私の名前は井上祥子」女は言った。

「私達に教訓があるなら、」女は続けた。

「私達は何も見ていなかった、ということなのかもしれない。だから、失った時にそれが何であったのか分からない」

 女は、変わっていた。口調も変わっていたし、サングラスから覗き見える表情も変わっていた。僕がそれに気付いたと見るや、女はゆっくりとサングラスを脱いだ。それは僕のよく知っている人間だった。女は、辞書だった。

「あなたは私を知らなかった。高校の時はちょっとした役者だったなんてあなたはもちろん知らなかったでしょうけど。それでも、私はあなたがこれほど私を知らないということを知らなかった。そして私は彼女を知らなかったし、あなたも彼女を知らなかった。つまり、」

 彼女は少し間を空けた。そして、

「一般的に言って、人は他人のことを知らないままに生きている」とまとめた。

「彼女はどうしたんだ」僕は、何とか、そうとだけ言った。

「墓を作ってくれ、と言われた。母親がやってくるから墓を作ってくれ、と」辞書はいつもの調子で言った。

「彼女、借金を作ってたみたい。ずっと昔から、いつか両親にまで返済責任が回ってくるようにね。小学生の頃から、ずっと、とんでもない額を」

「冗談だろ」僕は言った。誰よりも僕自身に向けて。

「ここにはいられなくなった。だからあなたをお酒で潰した夜、一人で出ていった。いつ殺されるとも分からなかったから、私が墓を作る役目を負った」

「それで?」僕は言った、というよりも吐き捨てた。

 辞書はまた、深呼吸をした。それだけが、先ほどまでと変わらない点だった。この周囲の酸素が無くなってしまうんじゃないかと思うぐらい。事実、僕は軽い目眩に襲われていた。

「彼女に以前、コンパスの話をしたことがあった。ある周波の発信器を探知して、それを指し示し続ける、なかなかお洒落な小物。その話を彼女が覚えていて、墓に発信器を取り付け、コンパスをあなたに渡すように言われたの。そして、あなたがここに辿り着くまでどれだけの時間がかかるかを記録しておくようにも」

 また深呼吸。僕はすっかり言葉を吐くだけの酸素を失っていた。

「彼女が最後に言った言葉は『墓まで辿り着かない方が彼にとっては幸せなのだと思う。けれども、いつかその結果を聞く時を楽しみにしている』」

 辞書はそう言った。そして、時計を見た。

「17日間、ね。おめでとう、これはあなたの勝ちだと思うわ」

 僕は何を言えば良かったのだろう?何も言うべきことなんて無かった。言えるべきことなんて何も無かった。僕は墓を蹴り飛ばした。ごつん、と鈍い音がして、奇妙な機械が墓の中から飛び出した。コンパスが僕の手の中でぐるぐると回っているのが分かった。僕はそのコンパスも投げ捨てた。そして、僕は泣いた。

 

 

 以上がこの17日間に起きた出来事だ。僕は彼女の家に行くことをやめたが、それ以外は変わらない生活を送っている。辞書との関係は変わらず、度々家に行っては、何をするでもなく本を読んでいる。ただ、この期間に起きたことを新しく思い出す度、こんな風に書きまとめている。ちょっとした小説のようで、こうして見るとこれが本当に僕の出来事なのか、分からなくなってくる。そもそも、どうしてこんなことをしているのかさえ分からないのだ。

 ただ、ノイズの趣味、音楽鑑賞鑑賞について僕が一度尋ねたことを思い出す。

「どうしてそんなことをしているんですか?」と。その時、彼は、

「記録を残しているんだよ」と素っ気なく答えた。それから少しだけためらって、

「記録ってのはいつか役に立つ時が来るかもしれないからな」と言った。

 僕だってそうなのかもしれない。彼女は結果を聞く時を楽しみにしていると言った。僕だってこの記録がいつか役に立つ日を、それでも心から待ち望んでいる。

 

2001/03/30

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この文章は小関悠が個人の立場で書いたもので、所属する組織などの立場や意見を示すものではありません。特に明記のない限り、この作品はフィクションです。

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