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本の復活

 神保町の路上に行列ができている。数百人、いや、千人以上いるのだろうか。なにしろ交差点の向こう側まで延々と人の波が続き、どこで途絶えているのか分からない。狭い歩道からはみ出さないよう警官まで出動して整理にあたっているが、割り込んだやら割り込まれたやら、各所からいさかいの声があがっている。並んでいるのは男性、それも白髪まじりのご年配が大半だ。

 

 本日は高崎龍矢の新作小説「まるになるまでまって」の発売日である。紙の書籍が販売されるのは、ここ神保町の井川書店だ。発行されるのはわずか百部。すべてにシリアルナンバーが記され、書店に待機している作家がその場でサインを描く。価格は四万アジアドルだ。平均的な大卒サラリーマンの月収に匹敵する額だが(もっとも平均的な人間は今や大卒でもなければサラリーマンでもないが)、行列を見れば分かるとおり、高いと思わない人が大勢いるらしい。もちろん、明日には各種プラットフォーム向けデジタルデータも販売される。こちらは四分割されており、最初のデータは無料、残りは各九ドルである。

 

 高崎は若いころ散文小説(当時はケータイ小説と呼ばれた)で人気を集めた恋愛小説家だ。老いた今でもこの分野では他に並ぶ者のいない名手である。この人気作家の最新作が、データより一足早く紙の書籍として販売されるわけだ。発行するのは二十年前、大手出版社三社の紙部門が統合して生まれた「いちご出版」。転売防止のため、購入するには国民IDカードが必要である。もっとも、万が一オークションに横流しすれば、目的外購入罪に問われる可能性が高い。だからここに並んでいるのは悪徳業者ではなく、純粋なファンなのだ。大半は手に入れられないことを理解しながら、作家本人と紙の書籍を一目見ようと集まっているにすぎない。

 

 いま、紙の書籍はかつてないほど注目を集めており、ちょっとしたブームとなっている。高価で場所を取る紙の書籍はステイタスそのものだ。特に幼児教育に紙の書籍が良いと言われており、祖父母が孫へ絵本を贈る例が多い。辞書や辞典も人気である。国外ではオックスフォード英語辞典が二十八年ぶりに紙で発売され、たいへんな話題を呼んだ。全六十巻、もちろんすべてにシリアルナンバーが記される。

 

 神保町でコミックを物色していた中学生くらいの男の子に話を聞いてみた。「最近はコミックを紙の書籍で読んでいるよ。臭いけど、時代の生生しさがあるよね」彼はお小遣いをだいぶコミックに費やしているという。「本棚って本を並べるところっていう意味なんだよ。コミックを並べると、背中が組み合わさって絵が浮かびあがるんだ。むかしの人はすごい工夫をしたと感心するな」

 

 井川書店では午前十時の開店と共に紙の書籍の販売がはじまった。最前列にいた初老の男性はこの日のために京都から上京し、二日間店の前で待ったという。「ケータイで読んでたころを思い出しますよ。豆粒みたいに小さな画面でね。でもこうやって紙の書籍で手に入れるのが最高ですよね」いまから読みますか、と問うと、男性はぎょっとした顔をして「まさか。明日iPaperで読みますよ」と返した。そして買ったばかりの本をその場で真空パックに詰めた。

 

2010/09/14

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