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消えないペン、マーベリック

マーベリック。英語で異端者の意味だ。サインペンの商品名としては大袈裟かもしれない。昨年の冬、小さな文房具メーカーから発売された。特長はどこにでも書けてすぐに乾くこと。「消えないペン」という実に分かりやすい売り文句をひっさげて、文房具業界ではちょっとしたヒット商品になった。工事現場や倉庫などでいろいろな品物ヘ確実にメモを残しておきたいというプロがよく購入しているらしい。すべては社内のとある科学者が瞬時に乾くインクを発明したおかげ。つまり、私のおかげなのだ。

 

私は文房具メーカーで働きながらメモを持ち歩かず、思いついたことはなんでも手の平に書く癖がある。問題は汗などでメモがすぐ消えてしまうことだ。そこですこしは消えにくいペンを作れないものだろうかと考えた。実験してみたところ、思いのほか消えないペンがほどなく出来てしまった。この逸話は経済紙に取り上げられ、私はヒット商品の生みの親、若手サラリーマンの希望の星としてちょっと知られる存在になった。会社からは臨時ボーナスが十万円支給されただけだが、特に不満はない。いつだって好きな研究ができるので、会社に感謝しているくらいだった。

 

不満があるとすれば、そんな私が先程から見知らぬ家で体中をぐるぐるに縛られ寝かされていることだった。そばには見知らぬ中年男がいて、手には他ならぬマーベリックを持っている。男はもう片方の手にピンク色の手帳を持ち、それを見ながら私の肌になにかを書き写していた。すでに両腕はぎっしりと文字で埋められている。余白がなくなったのだろう、男は私のシャツを無言で剥ぎ取り、首筋のあたりからまたなにやら書きはじめた。男の顔が近い。ガムを噛んでいて、息は爽やかなミントのかおり。この男になんの恨みを買ったのだろうか。必死に思い返そうとするが、どう見ても知らない人間だ。男はリストラ寸前のサラリーマンのように、力のない目で淡々と文字を書いている。リストラ寸前のサラリーマンなのかもしれない。

 

いつものような金曜日だった。夜遅くまで働いて、後輩と飲みに行った。日本酒を飲みすぎ、ふらふらと終電に乗った。駅から家まで歩くあいだに小雨が降った。もうすぐ家かというところで急に視界が真っ暗になり、気付いたらここにいた。頭が痛い。殴られたのだろうか。それとも二日酔いだろうか。目が覚めて以降、何度かなにか声を上げようと思ったが、男があまりに事務的にマーベリックを使い続けているので、中断させるうまい言葉が浮かばずにいた。

 

すこしづつ意識がはっきりしてきた。よくよくあたりを見ると、今いるのはどこか記憶にある場所のような気がする。デジャ・ビュだろうか。家具や荷物の類は見当たらない。それでも倉庫ではなく家の作りだ。寝転がされているのもフローリングの上である。新居なのかもしれない。窓の外は暗い。まだ金曜の夜だろうか。それとも一日寝ていたのだろうか。それさえ分からない。きょろきょろと目を動かしていると男と目があった。「あの」私はなんとか声をひねり出す。「どちらさまですか?」

 

「あなたとは前に会う予定だったんですがね」男は思いのほか渋く通った声で話した。このような良い声で話す醜男を私は知らなった。「我が家に来るはずだったんですよ、本当に。そうすべきだった」そう言うと、男はそっと溜息をついた。そしてまたマーベリックを手に私の胸元へやり、書き写しを再開した。ペン先がひんやりと冷たい。「しかしこのペン、もう少し細字を書けるといいのだが」

 

消えないインクは粘度が高い。だからこれ以上ペン先を細くするとインクが詰まる危険がある。いままさに私が取り組んでいる課題だ。しかし男に説明してやる義理はなかった。いまはもっと重要な問題がある。「どういうご縁でしたっけ」私はなるべく大人しく言った。この男は明らかに頭がおかしい。不用意なことを言っては、殺されるかもしれない。

 

「娘が最近、結婚しましてね。でもそれが、本当に嫌な男で。本当にがっかりしますよ、何十年も育てた子がね、あんな男と。私はあなたと結婚して欲しかった」男はほそぼそと言った。

 

「娘さんがいらっしゃるんですね」私がそう言うと、男はぎらりと急に目を力を入れて私を睨んだ。あまりの変わりぶりに私は一瞬生きた心地がしなかった。それは狂人の目だった。しかし一瞬だけだった。男はすぐにまた力のない目に戻り、作業に戻った。私はもうなにも言えなかった。

 

胸から腹までびっしりと書き終えると、男は次に私をぐるりと返し、背中に書き始めた。くすぐったい。死にたい気分だ。殺されたほうがましだった。プシューっという音がしたので腹這いのまま顔を動かすと、男がビールを飲みはじめていた。頭が痛い。限界だった。瞼を閉じる。ビールの臭いがひどい。私は考えるのをやめた。

 

起きたとき、空は明るかった。そして、私は全裸だった。たぶんそうだと思っていたが、やはりそうだった。今や体中が文字で埋め尽くされている。一方、男はビールの空き缶の山に埋もれて寝ていた。私を縛っていた紐はほとんど外され、いまは手首と足首に残されるだけだった。よくよく見るとそれは弊社が販売している本や書類を縛る用のヒモ「縛朗」(しばろう)だ。キャッチコピーは「ぱっと縛って、ぱっとポイ」だったはず。

 

私は足首を縛られたまま、バランスに苦慮しつつなんとか立ち上がった。全裸のままぴょんぴょん飛び跳ね、しかし男に気付かれないようなるべく音を殺して玄関に向かう。縛られた手で鍵を開く。外だ。

 

外は見慣れた風景だった。それは私の住んでいるマンションだった。振り返って部屋番号を見ると、それは私の部屋の隣だった。自分の部屋にはすぐに辿り着いた。しかし鍵がなかった。私は思わずへたりこんでしまったが、なんとかまた立ち上がり、建物の玄関ホールにある管理人室に向かった。エレベータは奇跡的に無人だった。玄関ホールの時計を見てまだ早朝五時だと分かった。管理人は寝ているだろう。管理人室のドアをがんがんと叩く。ほどなくドアが開いた。これから全裸で事情を説明しなければいけないかと思うと泣きたかった。

 

管理人は小心者の大男だ。彼の力を借りて私は紐を切り、だぶだぶの服を借りた。男のいた部屋に戻りたいと言うと、警官を待ったほうがいいと彼は答えた。そうこうするうちに逃げられると私は言って飛び出すと、管理人は渋々ついてきた。部屋は鍵が開いたままだった。しかしすでに無人だった。ビールの空き缶や「縛朗」の切れ端だけが残っている。押し入れには私の荷物もあったが、私の衣服はばらばらに捨てられていた。

 

男が見ていたピンク色の手帳はなかった。しかしそこになにが書かれてあったかは、自宅に戻り落ち着いて自分の体を見れば分かることだった。それは女性の日記だった。友人とカラオケに行ったとか、部活の先輩がうっとおしいとか、試験勉強が終わらないとか、他愛のない日々の生活が私の体中に書かれている。書き手は高校生くらいだろう。私は鏡を使って、体中の文章を読んだ。耳の中にまで書かれていた。そして腰のあたりに、私の名前が書かれてあるのに気付いた。私と三か月付き合って別れたと。失恋の恨みが長々と書いてあった。私はようやく、自分の体を埋め尽くしているものが、高校時代にすこしだけ付き合った同級生の日記だと理解した。

 

彼女のことはよく覚えていなかった。なんだかひどい別れ方をしたような記憶はある。しかし、高校生ではよくある話だった。体に書かれた日記をできるかぎり読んでみたが、いかんせん私の知らないことばかりで、なんだか別人のように感じられた。日記とはそういうものかもしれない。そうするとあの醜男は、彼女の父親だったのだろうか。なぜ私を捕まえたのだろう。日記をどうやって手に入れて、なぜ私の体に書き写そうとしたのだろう。彼女はいまどこにいるのか。

 

いずれにせよ、この文字をいますぐ消したかった。しかしマーベリックは消えないペンなのだ。私はそのことを誰よりも知っている。

 

すぐにマスコミがやってきた。しばらく外出を控えたが、それでも私の顔はすぐさまさまざまな週刊誌に載ることとなった。女子高生の日記が書き記された私の顔。「犯行に使われたマーベリック」はあちこちで取り上げられ、売り上げを急拡大させることになった。事件を知った中高生が、タトゥーがわりにマーベリックで体に落書きをするようになったらしい。私は一躍ファッションリーダーになってしまった。

 

幸い、皮膚は生まれかわる。あれだけ強固なインクも、一月ほど経てばほとんど消えた。私は仕事に復帰した。誰からも長期休暇を咎められることはなかった。売り上げ増加に寄与したと臨時ボーナスが出たくらいだった。マスコミの取材がまた増えた。そんな取材で知り合った雑誌の編集者と付き合うことになり、今度の春には結婚することとなった。契約の都合で住み続けていた不吉なマンションをようやく引き払い、2LDKの新居を借りた。先に住み始めた私は自分の荷物をおおかた片付け終わり、彼女の荷物は業者が届けてくれた。今晩からは彼女もこの家にやって来るはずだが、なかなか来ない。

 

2010/07/23 - 2010/08/05

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このページにある全ての記述は、特に明記のない限りフィクションです。また著者である小関悠が個人の立場で書いたもので、所属する組織などの立場や意見を示すものではありません。
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