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新幹線で隣に座った女性の読書について

 日曜、夜のカフェバーで、マスターがエンジニアの男と小説家の男を相手に話をしていた。三人の付き合いは長い。彼らにとって、そうして毎週の出来事を報告しあうのは何年も続く儀式のようなものだった。三人にはほかに大した友人がいない。三人で長く時間を共有しすぎたのかもしれない。どちらが原因でどちらが結果なのかは分からない。マスターと小説家は既婚者だ。子供もいる。しかし家族たちは彼らを尊重しておらず、帰りを待っていることさえない。なんでも話せる場所はここだけだった。

 

 マスターはこんな話をしていた。「このまえ、甥が結婚するというので広島へ戻るために新幹線に乗ったんだよ。品川から。指定席は二人がけの窓際だった。通路側にはすでに若い女性が座っている。若いころの国生さゆりみたいな美人だ。熱心に本を読んでいたよ。こちらには気付いてなかったから、前を通してもらうためには、すみません、とか言う必要があった。それから席に座る。彼女は相変わらず読書に夢中だ。一体なにがそんなに面白いのかと思うじゃないか。だから自分も本を取り出してから、ちらちらと横目で確認した。新横浜に着くあたりで分かったよ。彼女はマーティン・ガードナーの『数学パズル』を読んでいた。二十歳そこそこの女の子が、ガードナーだよ。本当に」

 

「それで、どうしたんだ」とエンジニアの男。

 

「どこかのタイミングで、いい本ですよね、と言おうと思ったんだ。論理パズル好きですか、とか。ガードナーの本なら私も一通り持ってますよ、とか。うちの店には絶版本もあるので、良ければ今度遊びに来ませんか、なに、しがないカフェバーですよ、毎日やってることだけが取り柄の。しかしガードナーの本を読む女性は、読書中に声をかけるような男に好意を持つだろうか? 悩んでいるうち、彼女は寝てしまった。綺麗な寝顔だったよ。そして名古屋で起きるなり降りてしまった」

 

 エンジニアの男は言った。「俺も同じような経験があるな。東京駅から新幹線に乗ったら、後からバタバタと乗り込んできた美しい女性が、席に着くなり『夏への扉』を読みはじめた。もう半分くらい読み終えてたな。実はその時、俺も『夏への扉』を読みはじめたところだった。新訳が出たからね。彼女のは福島訳だったよ。装丁がくたびれていたから、何度も読み返しているか、古本だったか、誰かから借りたのかもしれない。『いい小説ですよね』と言おうと思ったが、まずは鞄から本を出したほうがいいか、それとも声をかけてから本を出したほうが効果的か、悩んでいるうち、やっぱり彼女は寝てしまった」

 

「声はかけられずか」と小説家の男が言った。

 

「いや、こんな機会はないと思って声をかけたよ。まずトイレに行きたいんですがと言って彼女を起こし前を通り、戻って席に着くなり鞄を開けて本を取り出し、『同じ本ですね』と言って微笑みかけたんだ。彼女は眠そうな目で頷いてくれたよ。いい経験だった」

 

 小説家の男は言った。「私も同じような経験がある。このまえ、新大阪から帰省するとき、うとうと眠ってしまって、気付いたら隣に座っている若い女性が私の新刊を読んでいた。おまけに、もうすぐ読み終えそうだった。彼女は私の小説に満足したのだろうか。そう考えると心配で眠気も吹き飛んだ。彼女が最後のページをめくる様を私はじっと見ていた。そして本をぱたんと閉じたとき、『その本、面白かったですか』と聞いたんだ」

 

「相手はなんと?」とマスターは尋ねた。

 

「『パパにしてはまあまあね』と言ってくれたよ」

 

2010/08/16 - 2010/08/23

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この文章は小関悠が個人の立場で書いたもので、所属する組織などの立場や意見を示すものではありません。特に明記のない限り、この作品はフィクションです。

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