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バーバー越智

 床屋にも行きつけの床屋がある。越智純也は毎月あたま、隣の市まで電車に乗って髪を切りに行く。スマイリーというのが彼の通う店の名前だ。越智の店と同様、個人経営の小さな床屋である。座席はふたつ。店主の今泉がすべての客の髪を切る。

 

 越智がスマイリーに行くには自宅の最寄り駅から電車に半時間乗り、そこからさらに二十分ほど歩かなければならない。一軒家が並ぶ住宅街の裏通り、奥まった行き止まりにあって、フレンチレストランなら隠れ家風と呼ばれるような風情だ。近くの床屋へ通っているところを見られたくないという一心でさまよっていたら、いつの間にかこんなところまで辿り着いてしまった。ふつうは店の仲間や知り合いの理容師に切ってもらうのだろう。しかし彼が十年前に上京したとき、店の仲間はもちろん、街の知り合いさえいなかった。

 

 はじめ、越智は自分の素性を隠していた。今泉に仕事の話を聞かれたときは自営業とだけ答えた。ところが数年前なぜか酔って髪を切りに来たことがあって、気付いたらべらべらと床屋が床屋に通う難しさを話していた。教育熱心な校長先生のようにとうとうと、一時間近く喋り続けたはずだ。結果としては良かったのだろう。この痴態のおかげで彼は今泉と意気投合することができた。今ではお互いに新しい店の情報交換などをする仲である。今泉も小一時間かけてバーバー越智に通う。越智はロックミュージシャンと間違われるくらい長い癖毛だが、今泉はほぼ禿げきっているおり、仕事は越智のほうがずいぶん楽である。

 

 その年はじめの散髪も越智はスマイリーで済ませることにした。今泉に電話で伝え、店を早目に閉めると、閉店間際のスマイリーにすべり込む。今泉はいつものなにか言いたげな笑顔で彼を出迎える。「いらっしゃい」。越智が席に座ると、なにひとつ注文せずとも散髪が始まる。越智は散髪中にべらべらと喋るのが好きではない。客としても、理容師としても。反対に今泉はよく喋る。だからスマイリーでは客の越智を尊重して静かに髪を切り、バーバー越智では今泉を尊重して会話をしながら髪を切ることになっている。

 

 そういうわけで髭剃りの最中に今泉が話かけてきたとき、越智は背後からユニフォームを引っぱられたサッカー選手のような気分を味わった。「調子いいみたいだね」と今泉は言った。「なにが」と越智はぶっきらぼうに答えた。「繁盛していると噂になっているよ」と今泉。「そうか」と越智。今泉のいうことは事実だった。一日に散髪できる客の数には限界があるが、ここのところ毎日限界まで人の髪を切っていた。切っても切っても次の客がやってくるのだ。こんなに人から求められたことははじめてだった。もちろん客は男ばかりで楽しいことはなにひとつなかったし、おかげで昼ご飯を食べる暇もなかったが、稼ぎはなかなかのものになった。年の瀬だからだろうかと彼は考えていた。

 

「『バーバー越智で髪を切るとモテる』って言われてるんでしょ」今泉は言った。越智は仰天した。そんな噂は聞いたことがなかった。「知らない」彼はそう言った。そしてすこし考えてから「本当に知らない。本当に?」と言った。「何人かから聞いたよ。中学生のあいだでそういう噂が流れているらしい。このあたりの中学生までそちらへ通ってるとさ」今泉は言った。そして彼は、うまいことやったな、という笑顔で越智を見る。今泉の得意な表情だ。この表情を見るたび、これこそがスマイリーかと越智は思う。

 

 帰り道、彼は最近相手にした客のことを思い出そうとした。あまりよく覚えていなかった。どんな年齢であれ、彼は要望のとおりに髪を切り、隠れた希望を汲み取って実体化するだけである。顔を見ないわけではないが、覚える必要はない。それでも言われてみれば最近は中学生ばかり相手をしていたような気もした。

 

 翌日もバーバー越智は大盛況だった。そして意識してみると、確かに客は思春期前後の男ばかりだった。今まで気付かなかったのが不思議なくらいはっきり、中学生、中学生、中学生が続いた。そういえば今はまだ冬休みなのだ。彼らはほとんどいつも「なんとなく、いい感じにしてください」と言った。彼らにはまだ自己の願望を言語化する能力がない。だから越智は精一杯、なんとなくいい感じにした。それで彼らはだいたい満足して帰った。ぼんやりとした願望と現実を比較して評価する術を持っていないのだ。

 

 閉店時間をすぎても現れる客を丁重にお断わりしながら、越智は最後の客の髪を切るのに集中した。最後の客も中学生だった。勉強一筋の準レギュラー役でマンガに出て来そうな、あまりモテそうにない中学生だ。「この店で散髪するとモテるんだって?」一段落ついたところで、なぜか越智は客にそう尋ねていた。「はい」中学生は恥ずかしそうにそう答えた。その返事を聞いて、越智はまた念入りに彼の髪を切った。モテればいいというものでもないけれど、モテたいと思うということは同級生に魅力的な女性がいるのかもしれない、と越智は思った。幸せなことだ。

 

 バーバー越智の料金は相場より高い。そのぶんだけ時間もかける。だから身なりに気を遣う人間しか通わない。この店に来るとモテるというのは、大方そういったところから広まった話なのだろう。だとすれば、大勢の客がつめかけるようになったいま、現実が噂をかき消すのも時間の問題だ。もちろん、噂をなるべく長く保つのが彼の仕事ではある。越智は一人、風呂上がりに鏡を見ながら考える。ああ、それにしても、通うだけでモテる床屋があればどれだけ良かっただろう。誰よりも越智自身がそんな店を求めているのだ。彼は長い前髪をもうすこしだけ自分で揃えた。

 

2010/02/02 - 2010/02/09

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このページにある全ての記述は、特に明記のない限りフィクションです。また著者である小関悠が個人の立場で書いたもので、所属する組織などの立場や意見を示すものではありません。
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