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マフラーと出刃包丁

 あのころは今より積極的だった。演劇をやっています、と新しく人に出会うたび言った。大学一年目はよく新しい人に出会う時期、そして互いが互いに興味を示す時期だ。演劇の話をすると八割の人が興味をもつふりをしてくれる。「いつから演劇を?」「役者? それとも裏方?」大学入学から始めたばかりのこと、友人が立ち上げた劇団で役者を任されていること、話が長くならないよう私は簡潔に説明する。そこで話題が終わるのが八割の七割くらい。「次の芝居はいつ?」「観に行こうかなあ?」と続けて言ってくれるのが八割の三割だ。お世辞だけじゃなく、実際に芝居へ来てくれる人もいる。公演までに友達付き合いが深まれば。でもそうでなければ、日程と場所をどれだけ正確に伝えても実際に観に来てくれることはない。人は忙しい。

 

 来てくれさえすれば感動してもらえるのに、と言えるほどのレベルに私たちの芝居はまったく達していない。だから客席の一部がいつも同じ団員の親友で占められ、残りが空席であっても、私たちは不満なんて抱かなかった。春の公演も夏の公演も秋の公演もそんな風に始まって終わった。満足だった。いつか名優になって見返してやるというような人間はいない。テニスサークルにウィンブルドンを目指す人間はいない。飲み会のたび話題となるのは芝居の出来ではなく、秋の夕暮れのような勢いで暗くなる就職市場の先行きだった。冬の到来がおそろしかった。

 

 一年生の最後、冬の公演から彼女は客席に現れた。誰の新しい親友だろうと私たちは舞台袖で話した。打ち上げで多少の議論をした結果、誰の知人でもないことが分かった。ようやく我々の面白さが口コミで伝わったのだと座長は顔をほころばせた。毎日のようにビラを配布した甲斐があったと広報は酒をあおった。私はどちらも信じなかった。世の中はきまぐれで動いている。たまたま芝居小屋の前を通りがかった、たまたま暇な人だったと考えるのが自然じゃないか。二年目春の公演でふたたび彼女が現れるまでそういうふうに思っていた。

 

 夏の公演、彼女は二度も来場した。初日と最終日。いよいよどういうことかと飲み会では話題沸騰である。アンケートを書き残さないので、彼女については名前も年齢も学生なのかも分からなかった。一番にやって来て最後列に座るので、私たちは最後列さんと呼んだ。髪が短く線の細い、幼い顔立ちの眼鏡をかけた女性だ。公平に言ってなかなかの美人で、きっと俺に惚れたに違いないと、ある男優は嬉しそうにうそぶいた。私はと言えば、自分たちの芝居が彼女にとってどのような価値を持つのか、ただただ不思議に思っていた。秋の公演初日にも彼女は当たり前のように現れた。今回は一輪の花束を持って。花には詳しくないが、とにかく濃厚な匂いを放つ花だった。そして宛先は私だった。

 

 秋の公演は金土日と三日間続き、土日は午後一番と夕方の二回公演を行う。満員になったことなどないのに計五回も公演をやる必要があるのかというと、ある。団員の親友たちが金曜日しか行けないとか、日曜の夜だけ時間があるとかいうからだ。観客は相変わらず増えない。五回の公演はいずれも空席が半分近くを占めた。いつもの光景だ。ただしすべての公演で最後列に最後列さんがいた。彼女ははっきりと私を見ていた。今までどうしてあの視線に気付かずにいられたのだろう。出番になるたび彼女の存在が私を捕える。私は逃れられず、照明に逆らって彼女の姿を追う。まるで彼女の舞台を私が見ているみたいに。

 

 日曜夜、ぐったりして私は打ち上げを迎えた。すると広報がもっとぐったりさせるようなことを言った。「さっき彼女と話しましたよ、帰り際の受付」「畑山さんっていう」「法学部の一学年下で」「冬の公演のときはまだ学生」「ファンって、はっきりと」「打ち上げにも誘ったんですけど、心の準備がと」心の準備ができていないのは私のほうだと言いたかった。おそらく永遠にできないだろう。彼女の美しさが恐しかった。なにも目立つような演技などしてこなかった。どうして美人に追われるような目に遭うのか。劇団をやめるしかないと思った。でもほかにやれることはなかった。演劇に時間を費やすとほかのことができない。ほかのことができないと演劇を続けるしかない。

 

 冬も全公演の最後列に彼女はいた。もはや指定席、当然の話だった。今日も来るかなと受付を開くころにはもう彼女はいて、その情報が私のいる舞台裏まですぐに伝わった。むしろ公演以外で出会わないのが不思議なくらいだった。いつか入団してくるのではないか。あるいは私の家にやって来るのではないかと。その日の舞台が終わると、私は帰り道で何度も後ろを振り返った。幸い、彼女が家までやって来る前に全日程は終了した。広報は当然のようまた彼女を打ち上げに誘った。彼女はもちろん心の準備を済ませていた。私はいつもの居酒屋で、美女の視線を真近に感じながら酒を飲むことになった。飲むしかなかった。

 

 飲んだ。酒には強くない。吐き気を覚えて店を出て、盛大に吐いた。深い深い溜息をついて店に戻ろうとすると、店の前に彼女がいた。牛乳を拭いた雑巾を見る目で私を見ていた。「失望です」彼女はただそう言った。そしてそのまま走り出した。どこかの方向へ。彼女とはそれから二度と会っていない。私は今も芝居を続けている。冬の就職市場から目を逸らすように、舞台で光を浴び続けている。空席は今も目立つ。最後列の指定席も今や誰もいない。あの打ち上げの夜、居酒屋には彼女の布製のバックが置かれたままだった。中に入っていたのは真赤な手編みのマフラーと出刃包丁だった。

 

2010/01/16 - 2010/01/21

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この文章は小関悠が個人の立場で書いたもので、所属する組織などの立場や意見を示すものではありません。特に明記のない限り、この作品はフィクションです。

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