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ティッシュくばらない

 木曜日の夕方、会社帰りに道を歩いていたら、パチンコ屋の前にティッシュ配りの女が立っていた。女は丈の長いダウンジャケットを着込み、寒そうにしながら、右手にティッシュを、左手にティッシュがたくさん入った袋を持ち、行き交う人々と眺めている。

 

 俺はすぐ前を歩いたが、女は俺を一瞥しただけで、ティッシュを渡そうとはしなかった。俺にだけではない。女は歩く人達にするどい視線を送りながら、まわりの男にも、女にも、ティッシュを持った右手を動かそうとしない。

 

 あのティッシュは誰なら受け取れるのだろうか。俺は信号待ちをしながら、女を振り返って見る。老人向けの保険とか、妊婦向けのヨガとか、ロシア人向けのフランス語教室とかなのかもしれない。女はただ寒さに震えながら、あちこちに視線を送りつつ、俺が見ている限り最後までティッシュをくばらなかった。

 

 翌日の夕方、同じ場所、同じような時間帯に、女はまたティッシュを持って立っていた。同じダウンジャケットを着込み、昨日から一晩中そこにいたかのように、人々をただ眺めている。誰にもティッシュをくばろうとせず、その前を通る人達も、それが自然であるかのように女の前を過ぎていく。

 

 俺は心持ち歩く速度を落として、女の目の前まで近寄ってみたが、女は動かず、俺をちらりと見てはティッシュを受け取る資格がないと確認して、ティッシュを持った右手は下に向けたままにする。女は数年前までよくテレビに出ていたアイドルに似ている。その険しい目つきを除けば。

 

 あの女は俺の妄想だったのかもしれないな、と俺は家に帰って考える。

 

 翌日、仕事は休みだというのに、俺は地下鉄に乗ってオフィスの近くまで行く。あの女はいるのだろうか。あのティッシュは誰が受け取れるのか。

 

 はたして、女は同じ場所に立っている。もちろん同じダウンジャケットを着て、誰にも配らないティッシュを持っている。通りを挟んだ向かいにカフェがあったので、俺はその二階でカフェラテを飲みながら、女の様子を眺める。これまでどおり女は首から上だけを動かし、あたりの様子を見ている。夜の十時になってカフェを追い出されるまで、もちろん女は一度もティッシュをくばらなかった。

 

 もしかすると、あのティッシュにはなにか暗号が書いてあって、女はそれを組織の人間に渡そうとしているのかもしれない。組織の人間は目立たない特長を持っていて、女は人混みの中から懸命に探そうとしている。ベルリンと書かれたセーターとか、左耳に土星の形をしたピアスとか、そういったありそうでないもの。

 

 会計を済ませて外に出ると、女は消えていた。慌ててあたりを見回すと、ティッシュの袋を抱えたまま歩いている女の姿がある。俺は慌てて走りだす。女が地下鉄の入口へ下りようかというタイミングで、俺は追いつく。「すみません!」と俺はすでに声に出している。女は振り向く。近くで見ると、思ったよりも若い。まだ十代かもしれない。

 

 女は返事をせず、こちらを見ている。俺は声を絞り出す。「ティッシュ、そのティッシュもらえませんか」女は少しだけ驚いた表情を見せて、袋からティッシュを一つ取り出して俺に渡す。そしてなにも言わず、階段を走って下りていく。

 

 ティッシュはパチンコ屋の広告だった。

 

2019/01/26 - 2019/02/05

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この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。

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