横を向いて歩いていたら、うっかり落とし穴にはまってしまった。僕はまだ朝起きたばかりで、顔さえろくに洗わず、右目のふちには目やにが残っていた。昨日は二時まで試験勉強をしていた。深夜番組を見るのと交互に。見飽きたコマーシャルがテレビに流れている間は、有機化学の問題を解いていた。アルコールとか、アルコールでないとか、そういう問題だった。ウォッカはメチルでしょうかエチルでしょうか、マルガリータの語源はなんでしょうか、なんて問題なら面白いのになと思いながら、僕はテレビを観ていた。司会と問題提供者と解答者に素人を起用するという、恐らくは画期的な素人参加型クイズ番組だった。素人構成型とでも言うべきか。司会を務める太った小男は、ここ三週間司会を続けていることもあって、そこそこ様になって見えた。そろそろ素人に見えないということで、来週あたりには新しい素人が新しい司会の座につくのだろう。解答者は週替わりで集まる、全くただクイズ好きの素人達五人だった。そこまでは悪くなかった。ただ、街の素人がカメラを向けられて咄嗟に出す問題だけは、見られたものじゃなかった。一問目は信号待ちをしていた女子大生が出題した。
「ワインの産地で有名なのは?」
僕は別にクイズに何の興味もない。ただ、クイズで出してはいけない問題の属性ぐらいは知っている。例えば、答えが限られていないこと。
一問目は大手電機会社に勤務する会社員が「ボルドー」と答えて正解になった。その前に「フランス」と答えた主婦は間違いとされ、最後に賞金やプレゼントと交換出来るこの番組の得点「リソース」を20失なった。会社員は初期リソース100に正解リソースを5、それから横取りリソースとして主婦が失ったリソースの半分である10を加えた。残りの半分は次以降の問題へとプールされる。正解報酬より間違いのペナルティがはるかに大きいのがこのクイズ番組の特色だった。「既存のありとあらゆるクイズ番組に挑戦する」と番組の冒頭で毎週語っている通り、斬新なシステムだった。そしてこれらのルールは毎週司会者の意向でころころと変えられた。先月など司会者が思いついた「ジャンプアップクエスチョン」という名前の問題を解いたOLが、2800ガルビを手に入れ、その一問で優勝した。先月の得点単位はガルビだった。先々月はポスティーナ。
第二問は下校途中の女子高校生が出題した。
「去年死んだうちのネコの名前は?」
僕は穴の中にいる。横を向きながら歩いていたせいだ。誰が作ったかずいぶん深い落とし穴で、声をあげているのに誰も気付いてくれない。どれぐらい叫び続けただろう?暗くて腕の時計も見えない。
2001/11/07
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
星新一賞入選のロボット子育て小話「キッドイズトイ」はAmazon Kindleにて100円で販売中。
流れるプールに流されて
流れるプールに流されて、僕はぷかぷかと進んでいる。太平洋の様に広い流れるプールだった。流れる速度はそんなに早くない。僕はスーツを着ていた。タケオキクチのスーツ。クリーニングに出したら大丈夫かな、と僕は思った。周りには誰もいなかった。ただ野菜が浮かんでいた。南瓜、キャベツ、玉葱、人参、南瓜、ピーマン、南瓜。南瓜がよく目についた。沈まないのかしらと思って下を見ると、南瓜が幾つも沈んでいた。「そのへんどうなんだろう」と僕は口に出した。誰も答えなかった。「誰か鏡持ってる?」と僕は言った。やはり誰も答えなかった。僕は喋ることをやめた。はじめは辛かったが、自分も野菜なのだと思うと楽になった。ただ、少し寒かった。……
サムシング
彼のちょっとした仕草が気になる。良きにしろ、悪きにしろ。あるいは始めは好意的に、途中からはそうではなく。何が自分の中で変わったのかは分からない。彼が変わったのかどうかも。もしくは、こう考える。物事は、基本的に変化していく。その中で周りと異なる変化を見せたもの、それがひずみになっていくのだと。……
ハロー・グッド・バイ
「別れよう」と言われたので別れることになった。四月の頭のことだった。エイプリルフールかと僕は思った。そう思ってしばらくの間、ふつうの生活を送った。ふつうに毎日朝起きて、夜眠った。普通にご飯を食べ、お茶を飲み、映画を観た。彼女がいないだけの、いつもの生活だった。……
虹
七十七の修行を終えて島から戻ってきたとき、街には雪が降っていた。冬なのだ、と僕は今更ながらに思った。夕闇に照らされて街は飾られ、金曜日なのだろうか、大勢の人が着飾って歩いている。海岸通りのアーケードを歩きながら、もっと人通りの少ないところを選べば良かったと後悔したが、もう遅い。だいたい、他の通りなんて知らない。行きに来た道を、こうやって辛うじて思い出して辿っているだけの話だ。……