ある日ゴミが視界に浮かんでいるのに気付いた。はじめは空気中の塵かと思ったが、視点を動かすに合わせゴミもふわふわと動くので、どうも眼球の異常らしい。すぐに目を洗ってみたが落ちない。仕方がないのでゴミを視界の隅に入れながら街を歩いた。ゴミは赤っぽく、よくよく見ると豚の形をしている。ときどきこちらを向いて愛らしい表情を見せる。そして視界の邪魔をする。いつからそこにいたのだろう。気にしなければどうってことないのかもしれないが、気になるとどうにもうっとおしい。僕は講義を休んで最寄りの眼科へ行った。
これは飛豚症でしょうね、と医者は私の目を見るなり言った。歳をとると自然にこうなってくるんですよ、まあ目にいいものを食べて下さいね。そう言うと医者は診断をさっさと切り上げ、飲み薬を手渡し、僕を追い返した。年寄り扱いか、と僕は肩を落とした。ふと思うところがあって帰り道に図書館で調べてみたところ、飛豚症なんて病気は実在しなかった。戦争のせいで街に残るのはやぶ医者ばかりなのだ。でも、もしかすると豚が僕の読書を巧みに邪魔したのかもしれない。
夕食のあと渡された薬を飲んだ。豚は一瞬嫌そうな顔をしたが、それだけだった。視界の隅で拗ねはじめたものの消える気配はない。布団に入って目を閉じても豚は瞼の裏でのそのそと活動を続けている。いまにも鳴き声が聞こえてきそうなくらい鮮明だった。僕は豚と共に眠った。蛇口をひねると豚が飛び出してくる夢を見た。
翌朝も豚は消えていなかった。むしろ豚は大きくなり、視界の左から右へうろちょろと歩いたり、ときどき視界の真ん中にやって来てはいたずらっぽくこちらを見たり、ますますうっとおしさを増していた。女と出会ったのはそんな時だった。出会った場所はマクドナルド。ハンバーガーを食べていたら女がやって来て、僕を見るなり、豚に取り憑かれてるのね、と言った。どうして分かったんだ、と僕は言った。それは、と女は言った、あなたが豚……豚……って虚ろに呟いていたからよ。
僕は彼女に豚の話をした。豚はウシ目イノシシ科。女は若く、よく話を聞く人だった。一通り話をしたら、今度は女が、豚をたくさん食べましょう、ときっぱり言った。食べて食べて食べまくれば、豚だって嫌になってあなたの目から出て行くかも。なるほど、と僕は思った。実際、視界の豚は彼女の話に不快そうな表情を浮かべていた。それから僕は女の家に住み込むようになり、彼女の作る豚料理を毎食平らげた。朝も豚、昼も豚、夜も豚。僕が豚になりそうなくらい豚を食べた。
そしてある日、豚はいなくなった。なんの前触れもなかったが、きっぱりといなくなった。民間療法が効いたのか、ただ豚の寿命だったのか。いずれにせよその瞬間に視界がぱっと開けた。なにもかもが輝いて見えた。女も変化に気付いて、僕におめでとうと言った。その時、僕ははじめて女の顔を見た。女は満面の笑みを浮かべ、それじゃあ先生、今度は私を助ける番よ、と言った。君は誰だっけ、と僕が言うと、彼女はただ、単位をちょうだい、と言った。
2009/05/21 - 2009/06/01
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
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