今になって思い出してみても、それは記録的に暑い一日だった。S系統のバスは長年の運行を経て、ついに最終日を迎えた。その日まで、S系統のバスは一つも事件を起こしていなかったのだ。考えてみれば、SはSacrificeのSだったのかもしれない。
その日に限ってバスは満員だった。最後部の座席には、なぜか巨体のコックとスキンヘッドの警官が並んで座っている。立っている男では、一人の首の長い男が目についた。二十六歳くらいの男で、強そうな兜を被っている。銃で撃たれたくらいでは壊れなさそうな兜だ。兜にはリボンのかわりに、編んだ紐を巻いている。紐の先には小さくワッペンが取り付けられ、家族を置いて来たのであろう、そこには「無事に戻って来てちょうだい」とサインが描かれていた。なんとなく嫌な感じがして、携帯電話を取り出してみたが、こんな時に限ってなぜか圏外なのだった。
停留所に着くと、客が降りて、乗っていく。降りた男がバスを振り返って言う。こんな満員のバスに乗れるか! 俺は一人で歩いて行くぞ!
乗った男が見送る女に言う。別れはほんの少しのあいだだけさ、すこしだけ待っていておくれ。女は言う。実は私、妊娠しているの……。男は驚いて言う。それなら戻って来たら結婚して、昔みたいにまた一緒に店を開こう。
そのとき一瞬、暗い影がバスに乗り込んできたように見えた。目を凝らすと、そこにいたのは黒猫だった。なんだ猫か……と安堵したのも束の間、不意に首の長い男が声を荒げて言った。人が通るたび、隣の男が押してくる、と。それまで冷静そうに見えた男の、突然な激昂であった。言われたほうの男は無表情に聞き流したまま。すると奥から別の大男が現れて、この方を誰だと思っているんだ文句があるならまず私を倒してからにしてもらおう、と言った。首の長い男は黙りこむ。
意外にも、その次に口を開いたのは押していると責められた男だった。責められた男はいつの間にか泣き始めており、首の長い男が生き別れの息子に似ていることをとうとうと語り始めた。そのうえ責められた男は大企業の社長で、死ぬまでに生き別れの息子を見つけて会社を譲ろうと考えていた。大男は社長の側に立ち、死ぬなんて縁起でもないことを言わないで下さい、と言った。
次の停留所で、女の客が降りた。目の覚めるような美人だ。女はバスに残る連れの男に向かって言う。資料を見ているうちに気付いたことがあるの、調べに戻るから先に行っていて。
首の長い男は、泣いている客と大男を無視して、美人が座っていた席にあわてて座る。男はこのとき、それが最善の策だと思っていたのだった。
二時間後、サン=ラザール駅の広場で首の長い男をまた見かけた。バスで見かけたときよりも、ずっと明るい様子だった。男には、人の良さそうな連れがいた。ふと、その連れが気付いて言う。君のシューズの紐は片方が切れているな、通し直したほうがいい、と。そして連れは、長々とシューズの紐について語り始めた。まるで今後はもう説明する時間がないかのように。
そう、もちろん、これはまだ序曲に過ぎないのだった。
2009/04/06 - 2009/04/17
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
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文体練習チャーハン
S系統のバスはチャーハンのように人気なため、チャーハンのように混雑している。チャーハンのようにソフトな帽子をかぶった、出来立てのチャーハンのように若い男、チャーハンで米に卵のコーティングをするように、帽子にはチャーハン色のリボンを巻いている。男はチャーハンに入れる刻む前の葱のようにひょろ長い首をしている。客がチャーハンのようにあわただしく乗り降りする。男が隣のチャーハンには向かない米のようにふっくらした男に向かって、炒めている途中のチャーハンのように腹を立てる。誰かが横を通るたび、冷や飯からチャーハンを作るときのようにぐっと押してくると言って咎める。成功したチャーハンのパリっとした声を上げようとするが、失敗したチャーハンのようにベッタリとした口調。停留所に着き、フライパンを振ったかのように席がぱらぱらとあいたのを見て、男は強火で炒めるようにさっと座る。……
初恋の終わりの終わり
中高生のころ、私は無茶苦茶もてた。たぶん学校にいるほとんど全ての男性が私を好きだった。あまりにもてすぎて誰も言い寄ってこなかったくらい。だから何人が私を心の底から愛していたのか、正確なところは分からない。でも、きっとほとんど全員に違いなかった。その証拠に、いつも誰かの視線を感じた。夢では誰もが大胆に私を奪い合おうとした。彼らは現実の満たされなさを夢で果たそうとするのだ。夜道を歩いていると、背後から襲われそうになったこともあった。私はいつも早足だった。うっかり教室に荷物を置いて帰ると、翌日には全てなくなった。鉛筆でも辞書でも絵の具でもなんでも。私は女友達に頼んで、一人で外を歩かないようにした。やっかみを恐れて、男性とは話をしないようにした。自惚れの病気にかかったのではと両親は私を心配していた。中学三年の担任が卒業時に告白してきて、私をとりまく状況はようやく理解された。もてのイコンが世界にあるとすれば当時の私がそれだった。……