満員のバスがゆっくりと道を走っている。
「S系統」
と、のちに事件の舞台となるこのバスは呼ばれていた。午前のことである。
その中にソフト帽を被った男がいる。齢はまだ二十六。首はひどく長く麒麟のようである。この短い物語の主人公であるが、名前はない。余談ではあるがこの時代、名前のない者は少なくなかった。
男は帽子に編んだ紐を巻いていた、とされる。いまでいうリボンである。もちろん当時はリボンなどなかったら、その編んだ紐もただ、
「紐」
と呼ばれていた。
バスはいまと同じで、停留所では乗客が乗り降りする。満員で乗客が乗り降りすると、当然ながらしばしば人の体がぶつかりあうことになる。当時もそのようなことがしばしば行われていた。そして、男もそのようにして他人とぶつかりあうことになる一人であった。
(これは厄介なことになった)
と、男は思った。なにしろ隣の乗客が、たびたび押してくるのである。一度や二度ではない。のち、男がこの日を振り返ったとき、
−−−静カニスレバ、天下ハ他人ノモノナリ。
黙っているだけでは物事は動かせない、と述懐している。実際、いよいよ押し方がひどくなったとき、男は声をあげて隣の乗客を詰った、とされる。どのような声をあげたのかは不明な部分が多い。辛辣な声だったという書もあれば、めそめそとした声にすぎなかったという書もある。いずれにせよ確かなのは、そのあと席が空いて、男がそこを得た、ということである。
ともかくも、男は席を得たのであった。
バスのことはおく。
さて、男は二時間後、サン=ラザール駅前の広場にいた。
「ローマ広場」
とも呼ばれている。
隣には連れの男がいた。この男にも名前はない。
連れの男は、
「シャツにボタンが不足しているのではないか」
と言ったりした。
シャツにはボタンをつける場所が様々あるが、連れの男はどこが不足していたのか、入念に説明することができた。連れの男はもともと細かいことが得意で、器用さは広く知られていた。しかし翌年の戦争で男も連れの男も、街の人間は一人残らず死んでしまった。
2009/03/16 - 2009/04/17
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
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文体練習フラグ
今になって思い出してみても、それは記録的に暑い一日だった。S系統のバスは長年の運行を経て、ついに最終日を迎えた。その日まで、S系統のバスは一つも事件を起こしていなかったのだ。考えてみれば、SはSacrificeのSだったのかもしれない。……
文体練習チャーハン
S系統のバスはチャーハンのように人気なため、チャーハンのように混雑している。チャーハンのようにソフトな帽子をかぶった、出来立てのチャーハンのように若い男、チャーハンで米に卵のコーティングをするように、帽子にはチャーハン色のリボンを巻いている。男はチャーハンに入れる刻む前の葱のようにひょろ長い首をしている。客がチャーハンのようにあわただしく乗り降りする。男が隣のチャーハンには向かない米のようにふっくらした男に向かって、炒めている途中のチャーハンのように腹を立てる。誰かが横を通るたび、冷や飯からチャーハンを作るときのようにぐっと押してくると言って咎める。成功したチャーハンのパリっとした声を上げようとするが、失敗したチャーハンのようにベッタリとした口調。停留所に着き、フライパンを振ったかのように席がぱらぱらとあいたのを見て、男は強火で炒めるようにさっと座る。……