youkoseki.com

見えない都市 都市と音楽 1

 ハチほど複雑に入り組んだ街はそう見かけませんが、あの街ほど音楽に満ちたところとなりますと他に二つとございません。それは街に辿り着いた瞬間から分かることでございます。建物という建物に入る店という店から、溢れるように音楽が流れてくるのです。服屋からは服屋の音楽、薬局からは薬局の音楽、電器屋からは電器屋の音楽と、四方八方から止むことのない音楽に包まれる感覚を、私はあの街で初めて知りました。それはさながら陣地を奪い合う軍隊のようでした。音が他の音をいかに制圧するかの戦いでございます。勝利のために誰もが大きく目立つ音楽を選びますので、それらが混じりあった時に聴こえるのは、断片的にはそれぞれの音楽の特徴を持つものの、全体としてはなんであるかはっきりとしない、巨大な音楽の亡霊なのです。

 音楽を撒き散らすのは建物だけではございません。行き交う車という車からもそれぞれの音楽が聴こえます。あの街を走る車は特別に改造され、排気音のかわりに音楽を奏でるのです。幾つかの巨大な車は、音楽を発するためだけに街を巡回しております。もっとも、周囲の音楽に打ち消されるため、その巨大な音にも関わらず、それが一体なんの音楽であるのかを知る人間はいません。どのような意図でもってそれぞれが音楽をかけておるのかも分かりません。分かることは、音楽の戦争があまりに高まった結果、その街は音楽の無法地帯となり、生まれるのは不協和音だけで、勝者の音楽は一つとしてないということだけです。

 その街に足を踏み入れるのでしたら、もちろんそれなりの準備が必要でございます。何分あの音量は耳栓では防ぎきれませんので、多くの者が耳栓をした上で、そこに自分の音楽を流すことにしております。我々は個人の音楽を持つのです。我々は隣の者がなんの音楽を聞いておるのかも分かりませんし、会話をする場合は大声で話さなければなりません。建物の音楽はそういった個人に打ち勝とうと、ますます大きくなります。しかしあの街を音楽都市としているのは、なによりもそういった個人の耳元で生まれる、無数の音楽なのです。あの街には店と車の数だけ音楽があります。そして何より、個人の数だけ音楽があるのです。

 これだけ音楽が消費されておりますから、一方でもちろん多くの音楽が生産されております。音楽を売る店はその時々の音楽を街に流し、人々はそれに耳栓で抵抗しておりますが、耳栓から流れてくるのはまさにその店の音楽という次第です。誰もが大音量に疲弊しており、人々が好んで買うのはもっぱら癒しの音楽と呼ばれるものでございます。

 ですから、あの街の地下で見つけたバーは最初とても奇妙に見えました。狭い店内には三組の男女がおりましたが、誰も愛を語ろうとせず、注文さえ指図で済ませる始末でした。マスターは音もなく氷をグラスに入れ、割れ物でも扱うかのようにそっとシェイカーを振るのです。しかし長居をしている間に一組また一組と客が無言で帰り、最後にマスターが小声で「閉店です」と言った瞬間、私は人々が静寂を買いにここを訪れたのだと気付いたのでした。

 

2008/04/15

ツイート このエントリーをはてなブックマークに追加

この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。

星新一賞入選のロボット子育て小話「キッドイズトイ」はAmazon Kindleにて100円で販売中。

その他のテキスト

623
夜十時、雨のせいか先斗町の人通りは疎ら。私は濡れた地図を確認して小道に入る。体一つぶんの幅しかない狭い道。その突き当たりに「喫茶しらぬい」はあった。傘を閉じ、ドアを開ける。カランカランと古風な音が鳴る。中は暗いが、狭いので一望できる。手前の古臭い赤テーブルに中年のカップル、奥のテーブルには若者のカップルがいて、カウンターには常連らしい老女が静かに本を読みながらコーヒーを飲んでいる。マスターがカウンターに座るよう手で促しながら「いらっしゃいませ」と言う。私は頷いて席に座る。……

老マジシャンの仕事
祖父は物を消すのが得意だった。ハンカチを消すことも出来たし、時計を消すことも、彼の手にかかれば、なんでもすぐに消えた。おまけに六十を過ぎても好奇心旺盛で、なんでも手に取りたがった。祖母のお気に入りのスカーフも、私の大事にしていた人形も、手に取っては消した。……

らば
高校卒業から十年がたって、はじめて同窓会がひらかれた。私はそれから留学して当時の友人たちとのつきあいがきっぱり途絶えてしまっていたから、再会はたのしみでもあり、おそろしくもあった。はたして、ほとんどの友人たちは当時とまったく変わっていなかった。みな太ったり、頭髪が薄くなったり、説教くさくなったりしていたが、誰も一目見るだけで誰だかわかった。ただ一人、私の学生時代の恋人だけが例外だった。一目見て彼だとわかりはしたのだが、その事実をうまく飲み込めなかった。彼はらばになっていた。らばというのは、もちろんろばとうまの子だ。四本足で歩く。……

チキンピカタの作りかた
0.チキンピカタはイタリア料理の一つ。恋人の得意料理で、一時はよく作ってくれました。簡単に出来るので忙しい時にはぴったりですし、冷めても美味しいのでお弁当にもうってつけです。……