夜十時、雨のせいか先斗町の人通りは疎ら。私は濡れた地図を確認して小道に入る。体一つぶんの幅しかない狭い道。その突き当たりに「喫茶しらぬい」はあった。傘を閉じ、ドアを開ける。カランカランと古風な音が鳴る。中は暗いが、狭いので一望できる。手前の古臭い赤テーブルに中年のカップル、奥のテーブルには若者のカップルがいて、カウンターには常連らしい老女が静かに本を読みながらコーヒーを飲んでいる。マスターがカウンターに座るよう手で促しながら「いらっしゃいませ」と言う。私は頷いて席に座る。
「なんにしましょう」あご髭の立派なマスターがメニューを手渡して言う。四十歳くらいだろうか。息子に最後に会った時、彼もこんな髭を生やしていた。流行っているのかもしれない。
「そうだね」私はメニューを見るふりをしながら言う。「リン・シャオユウはあるかな」
あご髭のマスターが目をぐっと見開く。「そうですね」その声は微かに震えている。常連の老女がこちらを見るが、彼はすぐ「豆を見て来ますよ」と自然に言って、店の奥に消えた。彼だってプロだ、これくらいで取り乱しはしない。老女は読書に戻った。テーブルのカップルたちはなにも気付いてもいない。
マスターは一分ほどで戻って来た。そして私と目が合うなり「お手洗いですか?あちらの突き当たりです」と言った。私は立ち上がり、彼の示した方へ歩く。トイレは右手にあったが、私は「PRIVATE」と書かれた突き当たりのドアを開く。期待通り、そこには下り階段があった。とんとん歩くと、コーヒーの匂いが消え、煙草の匂いが強くなってくる。煙草が禁止薬物に指定されたのはもう二十年も前のこと。ここで間違いない。
「遅かったじゃないか」地下室に辿り着くなり、背の低い男がそう言って私を歓迎した。彼は河原町ジャッキーと呼ばれている。もう四十年も前に付いた渾名を、まだ名乗っているのだ。彼だけではない。私を含め老人ばかり四人、夜な夜な地下室に集まり、昔の渾名を名乗って生きている。
かつて、格闘ゲームと呼ばれるゲームジャンルがあった。キー操作でディスプレイ上のキャラクターが殴り合うゲームのことだ。1990年代にはたいへん流行したものである。しかし多くのゲームジャンルがそうであるように、時代の経過と共に複雑化し、初心者の参入障壁が高くなり、いつの間にか一部マニアだけの嗜好品となった。
ほとんど誰も格闘ゲームのことを考えなくなった時、なにかの事件をきっかけに格闘ゲームは暴力性を助長させるという言説が広まった。社会運動家たちの批判は苛烈で、あっという間に格闘ゲームは覚醒剤や大麻や煙草やガムと同じ、違法品になった。遊ぶだけではなく、所持するだけで逮捕された。
往年のゲームたちは、歴史的価値のあるものを含めて、ほとんどが処分された。ただ私たちのように、社会運動家たちのいう格闘ゲーム依存者の一部だけが、闇格闘ゲームをどこからか手に入れては、違法の煙草を吸い、違法の炭酸飲料を飲み筐体に蹴りを入れながら夜を明かすのである。そう、今日では微炭酸だけが合法である。
「今日は新物が入ったぜ」ジャッキーが言った。
「なんだ」と私。手近なビニル椅子に座り、腰の曲がった男が差し出した煙草を喫う。
「あれさ」ジャッキーが言うと、隣の大男が足下にあった箱を開ける。中から出て来たのは巨大で黒く、平たい箱だった。バツの形に模様が刻まれていて、真ん中には緑色のランプが備えられている。「これで、例のバレーができる」
「1のほうだな」私は言った。「2はまだか」
ジャッキーは首を振る。「無理だ。ソフトもハードもない。特にハードの良品は十年来見ていない」
「残念だ」私は言った。「じゃあ、いつものだ」
「ターボか?X?」
「ターボ」
ジャッキーが頷くと、大男が部屋の隅にある筐体へ案内する。大男は寺町シャルロットと名乗っているが、その名前で呼ぶ者は誰もいない。私が座ると、大男が反対側に座った。長い夜が始まるのだ。コインを入れると、ドギュンという音が鳴る。冷静に構えているつもりでも、心臓が高鳴るのを止めることはできない。あるいは心臓の薬を飲み忘れたせいかもしれないが。
ふと気付くと心臓音ではなく、サイレン音が部屋に鳴り響いていた。「サツだ!やばい!」ジャッキーが細い声で叫ぶ。「裏道から鴨川に出られる!逃げろ!」
私も痛む膝を庇いながら立ち上がる。しかし、全ては遅すぎた。ジャッキーが走り出した先には、もう若い男が待ち構えていた。
「そう慌てるなって」若い男はそう言って、ジャッキーを正面から受け止める。一階のテーブルにいた男だった。降りて来た階段のほうを振り返ると、やはりテーブルにいた若い女がこちらを見ていた。「格闘ゲームの所持、利用の現行犯逮捕だな。老後は刑務所で送ってもらおう」若い男は手早く手錠を取り出して言う。
「早すぎる。泳がされていたな」シャルロットが言うと、ジャッキーがうなだれる。
「いつもこんなに仕事が簡単だったらいいんだけど」女がカン高い声で言う。「まったく、たかがゲームに人生かけるなんて、いい歳してなにを考えているんだか」
「全く」若い男も言う。「ゲームなら他にもっとゴージャスなものがいくらでもあるのにな。なんだこれ、もしかして2Dか?」
「2Dでなにが悪い!」誰かが大声が叫んだ。それまで隅で震えていた、腰の曲がった男だった。彼は足下から旧百円玉を拾い上げると、若い男へ投げ付けた。旧百円玉は男の首をかすめ、傷跡から血が零れ落ちる。
「貴様!」若い男は怒り、大股で腰の曲がった男へ飛びかかった。しかし腰の曲がった男は間合いをじっと見極めると、鮮やかなサマーソルトキックで若い男を弾き飛ばした。若い男が一撃で床に伸びるのを見ると、若い女は黙って逃げた。
「御池ガイル!YOU WIN!」ジャッキーが細い声で吠えた。御池ガイル、それが腰の曲がった男の名前だった。ガイルは伸びた若い男に近寄る。
「幾つだ?出身は?」
「に、にじゅうはち」若い男は言った。「地元は神奈川県大和市」
ガイルは頷いて言う。「国に帰るんだな。お前にも家族がいるだろう」
翌年、ガイルは刑務所で死んだ。ジャッキーとシャルロットはあの日を最後に見ていない。私は自宅のパソコンにプロキシを通し、海外のオンライン格闘ゲームで遊ぶ毎日。ヨーロッパの格闘ゲームを禁止していない国が、日本人向けにそのような脱法サービスを提供しているのだ。しかし私の腕は鈍っていくばかりで、今では十連コンボもまともに繋がらない。ああ、せめて死ぬまでにあともう一度、あのレバーを握られたなら。623、23623、41236。
2008/04/21 - 2008/04/24
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
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老マジシャンの仕事
祖父は物を消すのが得意だった。ハンカチを消すことも出来たし、時計を消すことも、彼の手にかかれば、なんでもすぐに消えた。おまけに六十を過ぎても好奇心旺盛で、なんでも手に取りたがった。祖母のお気に入りのスカーフも、私の大事にしていた人形も、手に取っては消した。……
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