セクハラやパワハラの問題がメディアなどでも大きく取り上げられる今日、表だって「セクハラ、パワハラ、大好き!」と言う人は限りなく少ない。しかし、現実にセクハラやパワハラをする人達は今もいる。
最近、そういう人達に共通する特徴を見つけた。そういう人達はよく、こういうことを言うのだ。
「パワハラがいいことだとは思っていない。自分も普段ならパワハラをやろうとは思わないし、他人のパワハラは嫌悪し、反対している。しかし、場合によっては、冗談で、あえて、パワハラみたいなことをすることがある。そうすることでみんなの笑いをとることができるからだ」
この形式には色々なバリエーションがある。「人に怒鳴ったりするのはみっともない。自分も普段は常に落ち着いている。しかし本当に怒らなければいけないと思ったときは、あえて、声を荒げて怒鳴って見せることがある。そういう時も実際の自分は冷静である。ただ、そうすることで周囲も引き締まるのだ」とか。
「セクハラはもちろんいけないことだ。しかし、酒の席では、みんなに楽しんでもらうために、セクハラをする人が言いそうなことを、あえて言うことがある。自分が面白いことの言える人間であると知ってもらいたいし、それで場が和むことも知っているからだ」とか。
「人を殴るのはもちろんよくないことである。暴力には常に反対している。しかし場合によっては、自分が暴力をふるえる人間であることを見せつける必要がある」とか。
こういう人達は、普段の自分は善良な人間だが、場合によって、あえて悪を演じることがあるのだと言う。いつもは善良だが、理由あって、たまにギャップを見せる必要があるのだと。
私は、こういう人達を「あえて悪いことをする人達」と呼びたい。こういう人達は、ふだんの自分は善良であり、悪いことをあえてしてみせた瞬間でさえ、内面は変わらず善良なのだと信じている。
しかし、言うまでもなく、こういう人達は悪である。こういう人達こそが悪と言っても良い。自ら進んで悪いことをしているという認識が薄いぶん、自覚ある根っからの悪人よりも、さらに質が悪い。そして、根からの悪人はなかなか見つからないが、あえて悪いことをする人達はたくさんいる。
つまり、時々あえて暴言を吐いてみせる人間こそが、街で暴言を吐く人間の平均像である。時々あえて暴力をふるう人間こそが、暴力をふるう人間の平均像なのだ。
このことに気付いてから、付き合いを避けたほうがいい人を見極める能力が、ずっと高まったように思うので、ここに書いておく。
2019/07/22
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
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