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父の仕事:猫の鳴きまね

 今回はこれぞプロという仕事についての話。学生時代、下宿の近くに老夫婦が住んでいたんだ。二人とも八十歳くらいかな。お爺さんはだいぶ体を弱くしていた。いつも縁側でぼんやりしていて、それでもこちらに気付くと必ず笑顔で挨拶をしてくれた。次第と世間話をするようになったな。ほどなくお婆さんとも知り合いになった。こちらはすごく元気な人で、足腰もしっかりして、話す時もハキハキと声が大きかった。よく二人で散歩をしているのを見かけたよ。お爺さんを支えるように仲良く手を繋いで。

 

 ある日、近所のスーパーで私はお婆さんに声をかけられた。頼みたいことがあるんだけれど、と。なんでしょうと私が尋ねると、お婆さんは珍しくモゴモゴと話しづらそうにした。私は待った。しばらくしてようやく、お婆さんは、猫の鳴きまねはできないだろうかと言った。もちろんはじめは意味が分からなかったな。だから話を聞いた。

 

 つまりこうだ。お爺さんが可愛がっている猫がいた。野良猫だったけれど、お爺さんがこっそり餌をあげるものだから、しょっちゅう家に遊びに来ていた。ところが、先日から見かけなくなってしまった。どこかへ行ってしまったのかもしれないし、事故にあったのかもしれない。以来お爺さんは元気がない。そこで鳴きまねをして、猫がまだ近くにいるふりをしてあげたい。お金には困っていないので、お給料もちゃんと出す、とお婆さんは言った。

 

 うまく行くとは思えなかった。私は猫の鳴きまねの訓練などしたことがないし、生まれついて鳴きまねの才能があるわけでもない。すぐにバレるに決まっている。それにもし声で騙せたとしても、見れば猫がいないことは一目瞭然だ。お爺さんに嘘をつくのも心苦しかった。私は和らかい表現でそのようなことを言った。お婆さんは、大丈夫、と言った。お爺さんは目が悪くてほとんど見えない。体も悪いから、わざわざ近付いて触ろうとなんてしない。鳴き声がしたらポケットに入れておいた餌をぱらぱらと蒔くだけ実際に目の前に猫がいるのかどうかは分かっていないのだ、と。もちろん、嘘をつくことになる。けれども、それでお爺さんが喜んでくれるなら問題ない。お婆さんはそういうことを、熱意をこめて言った。あまりの熱意で私はつい引き受けてしまった。

 

 その日からさっそく鳴きまねの練習をはじめた。私がにゃあにゃあと言うと、お婆さんはもっと高い声でとか、丸い声でとか、あれこれと注文をつけた。にゃにゃにゃあにゃあ、にゃあにゃにゃあん、にゃ、にゃあにゃん、にゃん。あんなに猫の鳴きまねをしたことは過去になかった。顎が疲れたよ。一週間ほど大学もまともに行かず、練習に練習を重ねた。そうしてようやく、お婆さんのオーケーがでたんだ。

 

 はじめてお爺さんの前で鳴きまねをした時は緊張した。それでも練習の甲斐あって、まねは成功だった。お爺さんは満面の笑みになって、あの猫が帰って来たね、とお婆さんに言った。そしてポケットから、ぱらぱらと餌を蒔いた。私はお爺さんのすぐ側にいたけれども、気付かれることはなかった。お爺さんの目がそれほど悪いとはそれまで全く気付いていなかったら、私は少なからず驚いた。ずっと私には隠していたんだ。

 

 二日に一度くらい、私は鳴きまねをしに行った。それからまた何食わぬ顔で、お爺さんのところへ世間話に行った。よく観察すると、確かにお爺さんは足音でこちらの訪問に気付いていた。忍び足だと気付かないのだった。世間話はよく昔話になった。お爺さんは昔、映画俳優だったと、お婆さんが言った。男前だったんだよ、今も変わらないだろう、とお爺さんは笑った。喜劇役者だったじゃないですか、とお婆さんも笑った。

 

 一月が経って、ある日お婆さんが私にこっそりと給料を渡した。茶封筒に紙幣が詰まっていた。私は断った。お金をもらうような仕事じゃないし、こんな大金は受け取れないと。まあまあ、とお婆さんは言った。なにをやってるんだい、とお爺さんが言ったので、私はうやむやのまま茶封筒を受け取った。

 

 仕事は長く続かなかった。もう一月が経とうしたある日、お婆さんが亡くなったのだ。癌だった。私は泣いたが、お爺さんは泣かなかった。こうなることは分かってたから、とお爺さんは言った。とにかく、君がよく遊びに来てくれて、私もお婆さんも嬉しかったよ、と。私はその言葉を聞いて、また泣いた。そしてお爺さんは、ポケットから茶封筒を取り出した。今月分の給料だよ、と言って。

 

 気付いてたんですか、と私は言った。うん、とお爺さんは笑った。だって全然似てないんだもの。目は悪いけれども、耳がそのぶん敏感だから、足音でもすぐに分かる。お爺さんは言った。お婆さんは耳が悪かったんだろうな、隠していたけど、きっとそうだ。私はなにも言えず、とにかく受け取りだけは断わった。いま思い返しても、お爺さんは大した役者だった。最後まで騙されているふりをしていたわけだし、お葬式でも最後まで涙一つ見せなかったのだ。プロの喜劇俳優であり、プロの夫だった。翌週、お爺さんは息子の家へ引っ越して行った。

 

2009/01/13 - 2009/02/11

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この文章は小関悠が個人の立場で書いたもので、所属する組織などの立場や意見を示すものではありません。特に明記のない限り、この作品はフィクションです。

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