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ノー

 早朝の地下鉄で、一人の男が熟睡していた。大柄な男だ。スーツがだらしなくよれている。ちょうど私の向かい。他に乗客はほとんどいない。駅に着いた。ドアが開く。乗り換えを知らせるアナウンス。男が慌てて起き、飛び出す。ドアが閉じた。次の駅、私が降りようとすると、男が座っていたところに財布を見つけた。品のいい財布だ。私は拾って、駅員に届ける。駅員は目つきの鋭い初老の男性だった。私は彼に経緯を説明する。突然、「ありがとうございます!」という声。振り返ると、さっきの男がいた。「すぐに気付いて、次の電車で来たんですよ。盗まれたらどうしようかと思いました。いやあ、いい人に拾って貰って良かった」どういたしまして。私は会釈だけして、立ち去ろうとした。「あの、本当にありがとうございます」男は私の背中に言った。「良かったら、その、お名前だけでも。お食事でも奢りますけど」振り返らず、私は答える。「ノー」

 

 行き付けのレストランでその男を見かけた。体つきと、力の無さそうな目ですぐに気付いた。私はこちらを気付かれないよう、椅子を傾ける。気を散らしている間に、自分へのご褒美のはずだったリゾットが空しく冷めていく。突然、男が立ち上がる。トイレへ向かうようだ。私は俯く。しかし無駄だった。男はトイレに向かう途中で、私を見つけた。「奇遇ですねえ!」男は言った。エクスクラメーション・マークの好きな男だった。「先日はどうもありがとうございました。そうそう、申し遅れました、僕はこういうものです」男は先日と同じようによれたスーツから名刺を取り出す。「お一人ですか?良かったら、こっちのテーブルでご一緒しませんか」私は答える。「ノー」

 

 男の部屋には無数のレコードがあった。八畳ほどのワンルーム、壁という壁にレコード棚が並ぶ。床が抜けないのが不思議なくらいだ。「どうぞどうぞ、くつろいで下さい」男が言うので足下を見回したが、カーペットの上にもレコードが散乱し、落ち着いて座れるような隙間はなかった。「これは全部ジャズですよ!」私の唖然とした表情を勘違いしたのか、男が嬉しそうに言った。「二千枚あります。ジャズはあんまり詳しくないですか?なに、本当にいい曲はジャンルなんて関係ありませんよ。マイルス・デイビスならどうでしょう。同じマイルスでも、録音の違うものがいろいろありますから、この機会に聞き比べて見て下さい」マスタリング?とりあえず私は答える。「ノー」

 

 デザートのブラマンジェが運ばれてきた時、男は不意に「もうすぐ結婚するんです」と言った。私は思った。いったい誰と?男は私の表情を読み取り、にっこりと微笑んで「君と!」と言った。前歯の隙間にサラダに入っていた水菜が見えた。私は答えた。「ノー!」

 

2006/11/07 - 2006/11/08

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この文章は小関悠が個人の立場で書いたもので、所属する組織などの立場や意見を示すものではありません。特に明記のない限り、この作品はフィクションです。

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