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笑わない女

 物心ついてから一度も、三島真弓は笑ったことが無かった。いつも自覚していたわけではなかった。十月のはじめ、彼女が二十歳になった時にふと振り返ってみて、自分が一度も笑ったことがないのに気付いたのだ。

 そんなつもりはなかったのにな、と彼女は思った。たまたま今日まで、そんなに面白いことがなかっただけ。いやいや、そんなにつまらない人生だったわけじゃない。面白いこともあった。先日も、中学の同級生に偶然会った時、彼女のファッションがあまりにも的外れな仕上がりだったから、思わず笑ってしまいそうになったくらいだった。思わず笑ってしまいそうになることは何度もあった。でも、笑ったことは一度もなかった。

 

「私、そういえば一度も笑ったことないよね」ある日、彼女は恋人に尋ねた。

「うん?」彼はハンバーグを口に放り込みながら、不思議そうに彼女を眺めた。そして「うん、そうかもね」と、頷きながらミンチを噛んだ。そして何がおかしいのか、ふふふと笑った。あの笑い。あの笑いはどこから来るのだろう。

「笑わなくてもいいものだと思う?」彼女は尋ねた。

「気分次第じゃないかな」

「気分?」

「自分がそれでいいと思うなら、それでいいということだよ」彼は言った。

「それが分からないから、聞いてるの」

「僕も分からないからはぐらかすのさ」彼はそう答えた。そしてまた笑った。「まあ、気になる人はいるだろうな」彼は続けた。「何を言っても笑ってくれなかったら、たぶん寂しいに違いないだろう。その寂しさに人は耐えられるものなのかどうか。本人さえも」

「あなたは?」彼女は言った。「耐えられているの?」

 彼はフォークの先を口に運ぶ動きを止めて、答えた。「うん?」

 

 その日から、彼女はレンタルビデオ店でコメディー映画を借りてくるようになった。週に二本か三本、彼女はコメディーを見た。面白いものもあったし、下らないものもあった。しかし彼女は笑わなかった。

 恋人と一緒に見ることもあった。恋人はどんな下らない映画でも、五分に一度は病的に笑った。「今のところで笑うんだよ」彼は時々そう言った。「笑うとしたら、今のところだ。『ジョッキー!』って言って走り出す、あのところ」

「分かってる」彼女は答えた。彼女は本当に分かっていた。脳のどこかが、何かの刺激を生み出しているのを感じていた。しかしその刺激に他の部分、例えば頬などは、一切反応を示さなかった。

「今のところだ!」彼は言った。そして笑った。「今もだ!」そして笑った。

 敢えて言うならばこの男が一番のコメディーではないかと、彼女は思った。

 

「それはもう、立派な病気だよ」というのが大木の意見であった。

「いや、病気だとか断言するのはよくないかもしれないな」彼は慌てて訂正したが、だからどうなるというものでもなかった。「でも良くないことは確かだ」

「何にとって?何にとって良くないの?」

「君にとってだよ」

「私は健康だし、生活にも今の自分にも不満はないけど」

「じゃあ、他の何かにとってだ。とにかく良くない」

「そうなの?」彼女はいぶかしんだ。大木はメイルのやりとりから関係が始まった友人の一人だった。近くの街に住んでいるらしく、呼び出すとだいたいいつも話相手になってくれる。平日でも休日でも、夜中でも早朝でも。年齢は三十手前とのこと。何の仕事をしているのか、そもそも仕事をしているのか、彼女は知らない。

「考えてごらん」大木は言った。

「誰もが君のように笑わなかったら、世の中ってのはたいへん住みづらいところになると思わないかい」

 彼女は考えて、言った。「SF小説に出て来るユートピアみたいに美しく感じる」

「でもそういうユートピアは崩壊するんだよ。SFじゃあだいたいそうだ」大木は言った。

「そうかもしれない」彼女は頷く。「でもユートピアには違いないんじゃないかな」

 

 テレビ局から電話がかかってきたのは、十二月の上旬だった。

「『お笑い芸人』対『笑わない人』というコーナーを一つ設けるので、そこに出演してもらいたいんです。新年の特番で」テレビ局の女は言った。「笑いたかったら笑ってもいいし、笑いたくなかったら笑わなくていいんです。ただ、お笑いを見てもらうだけで」

 どこで彼女のことを知ったのか、彼女は分からなかった。彼女は拒否したかったが、うまく話をまとめられてしまい、いつの間にか受諾することになってしまった。

「どうしたらいいと思う?私、絶対に笑わないと思うんだけど」彼女は恋人に尋ねた。

「笑わなきゃいいんじゃないかな」恋人は言った。「だいたい、無理して笑えって言われたところで、笑えるの?」

「分からない」彼女は言った。

「今、ちょっと笑ってみて」

「今?」彼女はそう答えて、悩んだ。

「口を開いてみるんだ」

 彼女はそうした。

「笑顔は分かるだろう?あの姿の物真似をしてごらん」

 彼女はそうしてみた。

 彼は二秒あまり、動きを止めて彼女を凝視した。そして言った「これはなかなか難しそうだ」。

 

 三日後、彼女はテレビ局に赴いた。大勢のお笑い芸人が、日本中から集められた「笑わない人」を笑わせようと試みた。彼女以外の「笑わない人」たちは、いつか我慢が出来なくなって笑みをこぼしたり吹き出したりしたが、彼女だけは笑わなかった。最後まで。

「こういう人もいるんですね」お笑い出身の司会者は、明らかに不満そうにそう言ってそのコーナーを締めた。

 テレビ局から出て来る時、彼女は逆に少し泣きたくなった。

 携帯電話を見ると、三通のメールが届いていた。一通は大木からで「お笑い芸人は誰が来ていた?」という内容だった。二通目は恋人からで「お笑い芸人は誰が来ていた?」という内容だった。三通目も恋人からで「人生を楽しんでいるならそれでいいのさ、たぶん」という内容だった。

 気付いたら、本当に涙が彼女の頬を伝っていた。彼女は慌てて近くのショッピングモールのトイレに駆け込み、涙を拭いてメイクを直した。そして鏡に向かって、精一杯の笑みを浮かべてみる。

 そのまま、彼女は鞄から口紅を取り出す。携帯している二本のうち、濃い色の方。そしてそれを唇に重ねる。何度も何度も。グロテスクという形容が頭に浮かぶ。恋人は笑ってくれるかしら、彼女は想像しながら口紅を使い続けた。

 

 一方、ロシアは鉛筆を使った。

 

2004/12/08 - 2004/12/31

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この文章は小関悠が個人の立場で書いたもので、所属する組織などの立場や意見を示すものではありません。特に明記のない限り、この作品はフィクションです。

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