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ホット・ナイン

 朝九時開店・夜九時閉店のカレーショップ。だからホット・ナインなのじゃないのか。店長の言葉を聞いて最初に思ったのはそんな疑問。店長は僕含めバイト三人を前にこう言った。

「二十四時間営業になるんだって、ここ」他人事のように。

「本当ですか?」下村が言った。長身で、ショック吸収剤みたいな役割をいつも進んでやってくれる男だ。

「うん」店長。

 店長は雇われ人で、店や土地の持ち主ではない。僕達と同じように時給換算で給料を貰っている。幾らかは知らないけど、悲しいくらい少ないということを僕達は知っている。僕達も同じだ。アルバイト情報誌でよく見かけるホット・ナインの時給は「740円以上」。そして現在のところ僕達誰一人として「以上」の「上」の世界に足を踏み入れた者はない。

 そういう訳で、そういう訳というのはつまり雇われ店長という訳で、彼は上から言われた通りに店を運営している。いや、運営というよりは遂行と言った方がぴったりくるかもしれない。マニュアル通りにお客さんに接し、アルバイトを教育し、新メニューののぼりを店前に掲げる。上には間違っても逆らわない。僕達も同じ。逆らう時は辞める時というのも同じ。

「いつからですか?」僕は聞いた。

「再来週からみたい」店長は言った。僕は今年21になった。彼はその丁度倍。念のため。

「信じられん」下村。

「そういう訳でアルバイターを増やすから、誰か友達がいたら連れ込んで」店長が言った。

「信じられん」下村がもう一度言った。無口な園井が隣で頷いていた。

 それから僕はしばらく「ホット・ナインが二十四時間営業に!」のチラシをそこかしこで見た。ここが勝負時と思ったのだろう。ローカル局ではCMも放送された。かなりの深夜だったけれど。

 夜中にカレーを食べたがる人間なんているのだろうか。僕の家のポストにまで入っていたチラシにある、「深夜でも安心!」と喋らされたホット・ナインのマスコットの象(名前は無い)を見て、僕はそんなことを思った。朝一番に食べるのでさえぞっとする。というよりそもそも、カレーなんて最早自分から食べてみたいと思わない。二年半カレー屋で働いている人間の正直な気持ち。仕事の休み時間中は裏で自由にカレーを食べていいことになっているのだけど、半年以上働いてそれでもカレーに手を伸ばそうとするのは園井くらいだ。他の人間は仕事中大抵何も食べないし、どうしようもなくお腹が空いたら隣のコンビニで弁当を買ってくる。園井だけが、無口でぱくぱくカレーを食らう。

 翌々週、本当にホット・ナインは二十四時間営業になった。僕達の働く岬南店だけではなく、田中市にある全十二のホット・ナイン・チェーンが一斉に。その日、僕は朝七時に仕事場に到着した。もちろん、そんな時間から働き始めるのは初めてだった。それでも、夜中働くよりはマシだった。

「いらっしゃいませ」下村が店に入った僕の顔を見て言った。夜勤を押しつけたせいか、皮肉が刺刺しい。お客さんはゼロ。だからこそ聞ける皮肉でもあった。

「繁盛してる?」僕は言った。

「二十人くらい来ましたよ」新入りの、森が言った。履歴書を盗み見ていたので名前と顔は知っていたが、実際に会うのはこの時が初めてで、これが最初に聞いた言葉だった。

「いつからの計測?」僕は尋ねた。

「夜十二時からです」森。

「まずまずだろう?」下村が言った。

「そうだね。赤字だろうけど」僕は答えた。

「一人、ホット・ファイブに挑戦したよ」下村が言った。

 ホット・ナインでは注文時にカレーの辛さを決めることが出来る。一番辛くないのがホット・ゼロ、そして一番辛いのがホット・ナインというシステム。ホット・ゼロでも甘いということはない。食べて泣き出す子供もいるくらいだ。ちょっと辛いものが好きなんだよね、くらいの人間はホット・ワンで十二分。普通の人間の神経にはホット・スリーあたりが限界だと僕は思っている。店長からも、ホット・スリー以上の注文には注意してくれ、と言われている。注意してくれ、というのはつまり「かなり辛いルウになりますがよろしいでしょうか?」と聞き返すようにしなさい出来ることなら丁重にお断りしなさい、ということだ。

 初めて来た客など何も知らず、ホット・スリー以上を平気で注文しようとすることがしばしばある。そんな時、僕は「尋常じゃないんです。とにかくやめておいた方がいいですよ」と真顔で答えるようにしている。八割くらいの客は事態の深刻さを受け止め、ホット・トゥー以下に変更する(そして「これでまだ良かったよ」と汗を拭きながら言う)。残り二割くらいの客は面白そうじゃないのという顔をして、忠告を聞かずに注文を通し、そしてある者は泣き、ある者は笑い、ある者は怒り…とにかく水が何度も注文され、皿にはカレーが残ったまま。

「どれくらい食べてた?」僕が下村に尋ねると、下村と森が同時に笑った。森が言った。

「ごはんはだいたい食べてましたね。ルウの被害が及んでいないところは」

 そんなやりとりをしていた時、入口が不意に開いて、お客さんがやって来た。女性だった。短く刈られた髪。小柄な身体に、ベージュの長いコート。僕が「いらっしゃいませ」と言うと下村と森が遅れて「いらっしゃいませ」と言った。そして下村は「じゃあ帰る」と小声で言い、店の裏へと消えた。森は何も言わず、下村の後へ続いて消えた。

 気付いたら、店は僕と女性客の二人になっていた。店長は何時に来るつもりなんだろう。いつもと同じ、八時半くらいに来るつもりなのだろうか。

「注文いいですか?」女性客が言った。

「はい」僕は素早く答えると注文用紙を片手に、彼女の隣にまで近付いた。隣にまで近付いて、アルコールの臭いに気付いた。彼女の身体から放たれているのだろう。そうでなければ、超常現象か何か。

「ほうれん草のカレーを下さい」彼女が言った。呂律はしっかりしている。見た目も割合普通。化粧が少し濃いので、顔色はあまり分からない。

「サイズはいかが致しましょう」僕は定型化された台詞を言った。

「ミディアム」彼女は言った。

「辛さは」僕がそう言うと、メニューに目をやっていた彼女が不意にこちらを向いた。そして言った。

「ホット・ナインで」

 その注文を受けたのはこれが初めてではない。けれども、女性は初めてだった。いつもそれを注文するのは男だった。それも、何人かの中の一人という男。カップルの男だったり、男五人集団の中の一人だったり。

 ホット・ナインを注文する客は二種類に分けられる。一つは初めて来たというタイプ。「一番辛いのが食べたいな」くらいの気分で、自分がどれだけ危険な行動に出ているのか全く理解していない。もう一つは騙されているタイプ。「この前村上は食べきったよ」と一人の男が言う。それを聞いた連れの男が「それなら俺も」と注文する。もしホット・ナインを食べきる客が現れたら、それは大ニュース。話題にならないはずはない。「村上は」と言った男を見ると、にこにこと笑いながらホット・ワンを注文している。その時は園井が注文を聞きに行き、ホット・ナインと告げた客に対し、「あれは人間には無理です」と静かに宣言した。あまりに厳かな口ぶりだったので、「村上は」と言った男が思わずその場で「ごめん、村上の話は嘘」と告白したほどだ。

 要するに、ホット・ナインは食べられるものじゃない。何かの象徴として存在するだけのもので、客が注文するものじゃない。注文する客は何も知らないだけ。そんな客に知識と助言を与えるのが、僕達店員の仕事だった。

「失礼ですがお客様、こちらは初めてですか?」僕は言った。

「そうだけど」彼女が言った。やっぱり。ケース・ワン。僕は言った。

「当店のカレーは大変辛めに出来ています。初めての方はまずホット・ワンあたりから、徐々に挑戦された方がよろしいかと思いますが…」準定型の台詞。

「彼に聞いたのよ」彼女は僕の目を見たまま言った。

「一番辛いのが凄い美味しいって」

 ケース・トゥ。僕は思った。ワン・アンド・トゥ。

「その方は食べられたのですか?」僕は尋ねた。

「食べたって言ってた」

「いつですか?」

「知らないけど…先週か先々週の終わりか」

 僕は咳を一つ、わざとらしく。そして言った。

「先週か先々週に、ホット・ナインを食べきったお客様はいらっしゃいません。その間だけではなく、この店が出来てからずっと、他のチェーンも合わせても、ホット・ナインを食べきられた人間はこの世にいません」そう言い終えて、僕はもう一つわざとらしく咳をした。

「あなたのいない時だったのよ」女性が言った。

「いなくても分かります。もしそんな人がいれば大事件ですから」

「彼が嘘をついたって言うの?!」彼女は突然立ち上がって、叫んだ。

 あまりに突然でびっくりしたのだろう、自分の喉がぐっと鳴るのが聞こえなかった。僕は何と言っていいのか分からなかった。そして、何も言わなかった。

「とにかく、注文は以上。お願いね」彼女はそう言い、また椅子に座った。ポケットから携帯電話を取り出し、ボタンをぽちぽちと弄んだ。

「かしこまりました」僕はそう言うのが精一杯だった。

 十種類の辛さといっても、実際にルウを十種類用意しているわけではない。そんなことをしたらホット・ナインの鍋は腐ってしまう。ルウは一種類あるだけ。そこに後からスパイスの入った袋を混ぜ、注文に応じて具を載せる。ホット・ゼロならスパイスはなし。ワンなら袋一つ、トゥなら二つという次第。

 僕はルウを一人前取り出して金属のボウルに入れた。そして、スパイスの入った袋を開けてそれに混ぜた。まず一つ、二つ。彼女の方をちらりと見る。彼女は携帯しか見ていない。もう一つ。どうする?もう一つ。十分だろう?すると彼女がくるりとこちらを向いて「言った通りに作ってよ」と言った。「今、彼を呼ぶんだから」

 僕は無言で、袋をもう一つ開けた。そして更に一つ。ルウの色が赤黒くなっている。僕は真っ白な皿にご飯を盛り、ルウをかけた。そしてほうれん草を三枚。ホット・ファイブを越えると、そこから漂う湯気だけで目が少しちかちかする。

「お待たせしました」僕はそう言って、彼女のテーブルに載せた。彼女はカレーではなく僕の方をじっと見、そしてカレーに対峙するやおもむろにスプーンでご飯とルウとほうれん草をすくうと、そのままの勢いで口に運んだ。

 そして吐いた。

 

2002/11/24 - 2002/11/27

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このページにある全ての記述は、特に明記のない限りフィクションです。また著者である小関悠が個人の立場で書いたもので、所属する組織などの立場や意見を示すものではありません。
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