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ファスナーを直す

 就職したときから毎日使ってきたビジネスバッグのファスナーが壊れてしまった。水曜日の夜、急な雨に降られて、中から折り畳み傘を出そうとしたところで必要以上にファスナーを引っぱってしまい、部品が外れ、テープの側も破れてしまった。おまけに、自分のしたことに驚いて、部品を手から滑らせて落としてしまい、すぐそばの溝に落ちたのかどれだけ探しても見当たらないのだった。

 

 それは黒一色のなんということのない鞄で、記憶の限り、誰かの目に留まって誉められたこともなければ、見すぼらしいと批判されたこともなかった。手に入れたのは十年ほど前。当時付き合っていた年上の女性が、就職祝いに買ってくれたのだ。一応はフランスかどこかのブランド物のはずだが、ブランドを示すタグは何年も前に無くしてしまい、いまはその名前も思い出せない。

 

 それでも、記憶を掘り返せば、新宿の百貨店で買ったことは覚えていた。木曜と金曜を閉じない鞄で過ごし、土曜日の午前中に新宿に向かった。そして件の百貨店はすでに取り壊されていることに気付いた。

 

 その足で幾つかの修理屋に向かったが、誰もが言うのは、これは特殊な部品を使ったファスナーであり、修理することはできず、ファスナーの部分をすべて取り替えることであれば可能ということだった。それでも、一人の修理屋が、これはイタリア製なのだと言って、ブランド名を教えてくれた。

 

 インターネットで調べてみて分かったのは、そのブランドは確かにイタリア製で、八年も前に日本から撤退しており、中国で盛り返したものの、結局は五年前に創業者が亡くなったのと前後して倒産し、今では世界中のどこを探しても取り扱いがないということであった。

 

 私は運命的なものを感じて、以上の話を簡単にまとめ、この鞄を買ってくれた女にメールで伝えてみた。そして、ファスナーを新しいものに替えても良いか、あるいは新しい鞄を買うべきだろうかと問うた。それから三カ月が経ったが、返事は未だになく、私は閉じることのできない鞄を使い続けている。

 

2013/08/25

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この文章は小関悠が個人の立場で書いたもので、所属する組織などの立場や意見を示すものではありません。特に明記のない限り、この作品はフィクションです。

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