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文体練習をめぐる冒険

 僕は二十六歳で、そのときS系統のバスに乗っていた。バスは極めて緩慢な速度で運転を続けていた。博物館に寄贈してもいいくらい平凡なバスだ。しかしとても混雑していた。おそらく僕はこのバスに乗るべきではなかったのだ。

 僕は立ったまま窓の外を眺めていた。窓には平凡な男の顔が映っていた。それは僕だ。僕は目を逸らした。オーケー、認めよう。僕に関して特筆すべきことはほとんど何もない。いつも僕は自分のことを考えるたびたまらなく寂しい気持ちになった。

「みんな自分の魅力には気付かないのよ」ユミはよくそう言った。

「例えば?」

「例えば、首がキュウリのように長いとか」

 ユミはもういない。僕のキュウリのように長い首だけが残る。

 

 どこかの停留所に着いて、何人かが降り、何人かが乗った。車内に人の流れが生まれ、隣の男がコルトレーンのように強いリズムで何度か僕を押した。僕は黙っていた。次の停留所で、また人が降り、乗り、流れが生まれ、隣の男は僕を押した。僕をクッションかなにかと間違えていたのだ。痛くはなかったが、その男の鈍さが僕の内側に伝わってきた。

 なにか言うべきだろうと思って、僕は厳しい声を上げようとした。厳しい声を上げようとしたのは本当に久しぶりだった。だから実際に出て来たのは、猫のハミングのように弱々しい声だった。やれやれ。

 また停留所に着いた。今度は前方の席が空いた。僕はそっとその席に近付き、座った。席ならばなんでも良かった。なんであれ席が目の前あれば、とにかく座っただろう。要するにはそれは雪かきのようなものなのだ。僕はいつのまにか眠ってしまった。

 

 サン=ラザール駅のローマ広場で友人に会ったのは、二時間後のことだった。「き、き、きみの、コートには、もう一つボ、ボ、ボタンを付けたほうがいいな」と友人ははじめに言った。そのとおりだった。「もう一つボタン」と僕は繰り返した。それから友人はボタンの話を続けた。まずどこに付けるべきか、続いてその理由をたっぷりと、彼は話し続けた。ボタンの話をこれだけ長く聞き続けるというのは、何かしら奇妙なものだった。彼の話が終わるまで、僕はバスのことを考えていた。日はすっかり暮れていて、歩き始めると僕が踏む地面の軋みだけが残った。

 

2009/03/04 - 2009/04/17

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この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。

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