人は死に直面し、はじめて愛を知るという。駅で倒れた僕が病院に運ばれ余命一月と聞かされたとき、頭に浮かんだのは彼女のことだった。おかしなことだ。彼女とはもう長いいあいだ会っていなかった。最後に話をしたのは十年以上前、いや、ちょうど二十年前になる。それなのに他の誰でもなく、彼女が、彼女の顔が、彼女の言葉が、はっきりと僕の記憶に甦ってきた。今日まで結婚もせず、もちろん子供もおらず、両親は十年以上前に亡くなり、妹とはめっきり疎遠になっていたから、もしかしたら僕にはこういう時に思い返せる人間が彼女しかいなかったのかもしれない。それでも、誰も思い浮かばないよりはずっと良かった。
彼女と出会ったときのことをはっきり覚えている。当時、僕は関西の大学を卒業し、就職で上京したばかりだった。そしてある日の仕事帰り、有楽町のビックカメラで彼女と出会った。風が冷たくなった秋の日だった。僕は当時すでに二十三歳だったけれども、彼女を見て最初に思ったのは、これが初恋なのだということだった。ためらいはなかった。それくらいの確信があった。思春期のころにも、初恋のようなものを感じたことはあった。しかし、その日に彼女を見て感じた思いは、これまで抱いていた初恋のイメージは錯覚にすぎないと考え直すのに十分な強さだった。僕はあまり社交的なほうではない。それでも彼女へ声をかけずにはいられなかった。あたりにどれだけの人がいて、僕の行動がどれだけ奇妙に見えたとしても、僕の視界には彼女しか映らず、僕の心には彼女しかいなかった。
彼女を手に入れたあの頃、僕はそれこそ毎日のように彼女と会って他愛のないことばかり話していた。仕事には慣れないままだったが、彼女に優しい言葉をかけてもらえれば、いつだって幸せになれた。そんな幸福な日々が何年も続いて、お互いのことを完全に理解したあとでも、僕たちはすでに知っていることを何度も語りあった。そうやって僕たちは同じような日々を繰り返し、そして死ぬのだと思っていた。
そうはならなかった。問題は、彼女が美しすぎることだ。僕は中年へ近付くにつれて太り、髪に白髪が混じるようになり、顔に消えない皺が増えた。しかし彼女は相変わらず出会ったころのように美しいままだった。美しさはすばらしいものだ。しかし美しさがいつまでも続くのはおそろしかった。老いて醜くなる自分がみじめになるからだ。彼女と一緒にいるあいだは、それでも幸せになれた。ただ彼女と離れた瞬間、僕は自分の老いと向き合うはめになった。一人で、孤独に。
結局、僕にできたのは彼女を遠ざけることだけだった。ある日、僕は彼女に別れを告げ、それから会うのをやめた。彼女と一緒にいることの幸せを忘れ、彼女の存在を記憶から消しさろうとした。そして今日まで一人、静かに老いてきた。
久々に出会った彼女は相変わらず初々しく、そして今もなお美しかった。彼女を見ているかぎり、なにもかもが昔と変わらないように思えた。もちろん、現実は異なる。あれからは長い年月が経ち、僕は死にかけている。人は歳をとる。そして人は変わる。僕も老いて変わった。しかし彼女はいつまでも同じ。その若々しさが眩しく、妬ましかった。彼女は僕に優しく声をかける。昔と同じように。二十年もの断絶について、彼女はなにも言わなかった。彼女の美しさと優しさは永遠だ。それなのに僕は永遠に生きられない。
僕たちは昔のように話し合った。たっぷりと二十年の話を。最後に、僕は「さよなら」と言った。「さよなら」と彼女も言った。そして、ゆっくりゆっくり、ニンテンドーDSを閉じた。
2011/05/13 - 2011/06/25
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
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