四月にはピカピカだった。なにしろ僕達は新入生。前途洋々。天真爛漫。新品のランドセルこそ無かったものの、学校が指定する紺のバッグならあった。新しい学校と新しい友人。高校一年生は、何を始めるにしても素晴らしい時期に思えた。
ゴールデンウィークが終わるころには、そんな気持ちは完全に潰えていた。ヨレヨレのシャツ、昨日と同じジーンズ。寝癖はそのまま。目やにの残る顔で猫背になり、学校までの坂道を耐えるように歩いた。僕だけではなかった。隣の席の田中も、前の席の糸井もそうだ。後の席の北川に至っては、もう学校に来なくなっていた。
対処法は人それぞれ。一番は女。二番は夢。田中は文芸部の太めの彼女を手にし、五月の終わりに眉毛を半分の細さにした。糸井は大学で花開くことを信じ、いつも同じ白いポロシャツで授業を食いいるように聞いた。
僕は違った。僕が選んだのは酒だった。原因は杏子だ。写真部唯一の女性部員である彼女の実家は酒造業。生まれた時から母乳のかわりにブランデーを飲んで育った、女という衣のうわばみだった。アルコールは彼女の家に腐るほどあった。彼女はそれを紺のバッグに少しづつ詰め、学校で飲んだ。僕とハイはそれを少しづつ貰って飲んだ。お酒は二十歳になってから。彼女の持ってきたウィスキーを飲みつつ、いつかは彼女の両親にそう言ってやりたいものだと時々思った。
教師は何も言わなかった。おおらかな校風だった。授業中に酒を飲む生徒を黙認することをおおらかと呼ぶのなら。彼等は諦めていた。僕達はいわばニキビ。教室に四十人もいれば、必ず一人や二人はそういう人間がいることを、彼等は経験で知っている。その年はたまたま僕達がその役目を負っていただけのことだ。
僕達は時には不良と呼ばれた。だが僕達は、クラスメイトに怪我をさせるでも、窓ガラスを割るでも、盗んだバイクで走り出すわけでもなかった。ただ酒を飲み、酒臭く、時々意味不明のことを呟き、体育の授業で800メートル走をした後に校庭の片隅で吐くだけだった。僕達は劣等生でさえなかった。成績を見ると、僕とハイはいつも平均点のあたりを千鳥足。杏子に至ってはいつもトップ5の一員だった。「ウォッカを飲むと微積がスラスラ解けるの」杏子は言った。
酔っぱらうとすぐ陽気になるから「ハイ」と呼ばれていた、とする説は間違っている。彼は高校に入学した時から、酒と出逢う前から、彼と同じ中学だった人達には「ハイ」と呼ばれていた。本当の理由は、彼の身長にある。彼の身長は高校入学時で168センチ。だが、小学校二年の時に既に166センチあった。それでクラスメイトは、学年で一番背の高い彼を「ハイ」と呼んだ。これが真相。
もっとも、ハイは確かに酔うと人一倍明るくなった。それも事実。飲むと黙りこんでしまう杏子とは好対照であり、飲むと愚痴っぽくなる僕とも違った。端的に言って、酔っぱらった実にハイはよく喋った。こんな風に。
「二千年後の高校生というのはきっと大変だろうな、今よりずっと色々物事が解明されていて物理の授業ではダークマターやニュートリノやらを学ぶことになるのだろうよ。国語の授業では千年前の『古文』も、二千年前の今僕らが読み書きしているような『古々文』も、それから三千年以上昔の、丁度僕らが今『古文』と呼んでいるものも、全部勉強しなきゃいけないし、そして何より歴史、今の教科書より倍は分厚いだろうから、あるいは厚さはそのまま、密度がぐっと薄くなって『平家が栄えました滅びました源氏が栄えました滅びました』なんてね」
アルコールは人を変える。確かに、いつもの僕はどちらかというと物静かな人間。普段の杏子はあることないことをよく喋り、そして酒が抜けている時のハイは、全く、とてつもなく陰気な男だった。だが、僕達は今やいつも普段から酒と共にあった。何が本当の自分なのかなど分かるはずが無かった。僕達は高校生だったのだ。自分の名前をつっかえずに言えたら十二分。
ハイの第一印象は最悪だった。けだるそうに人とコミュニケーションを取る才能において、ハイは唯一無二の天下一品。彼の興味は明らかに、誰かと話すことよりもシャッターを押すことにあった。ネガを眺め続けて一日が過ぎれば、それは彼にとってこの上無い幸せな一日というわけ。
つまり彼は、写真部でただ一人の写真家だった。それも筋金入り。一方で僕と杏子は、ただ学校の義務として部活を一つ選んだだけ。上級生のいない、自由に生活が出来る部活を選んだらたまたま暗室に辿りついた。何もしなくてよいのなら、僕や杏子はバレー部でも手芸部でも喜んで入部しただろう。
写真部はそんな三人だけだった。名簿上には、見たことも無い顧問も一人。僕はそれが誰なのか今でも知らない、ままだ。
初め、三人の意見は噛み合わなかった。当然の話だ。線分の左端にテーマを決めて撮影を行ない、互いに批評しあおうと主張するハイ。右端にはとにかくこの会議を一刻でも早く終えて家に帰りたいと主張する僕と杏子。人数で言えば僕達の方が分が有利、だがハイの方が5倍は頑固だった。そして、公平に見て正しいことを言っているのはハイの方だった。ハイは言った。ここは写真部なのだ。帰宅部ではない、と。僕達の高校に帰宅部はなかった。だが、ハイの言っていることはやはり正しいと言わざるを得ないだろう。
結局、僕達は彼の言う通りに動く羽目になった。最初のテーマは「春の瞬間」。僕は心の中で愚痴。こんなことなら年の初めに書き初め合宿を行なうだけでそれ以外は自由参加と評判の書道部に入ればよかった。杏子が心の中で何を思ったかは知らない。ただ彼女は自分の鞄の中から水筒を取り出して、輝く液体をコップに注ぎ、それを黙って飲んだ。それが引き金だった。「お茶?」と僕は言った。杏子は笑って「飲む?」と僕に尋ねた。
社会に出た人と人の関係において、アルコールは見事な潤滑油となりうる。世間に疲れた社会人達はそんなことを言う。僕は知っている。それは高校生においても同じことだと。その日以来、僕と杏子とハイの関係は実に滑らか。全てが上滑りして行く様であり、その上誰も気にしないときている。それは楽園、それは天国。安住の地、夢の世界。そんな毎日が、ハイが死ぬまで続いた。
杏子は酒の適量というのを三歳の時から知っていた。彼女談。そしてそれを少しだけ越えるのが快感なのだと、常日頃言っていた。僕は五月までに授業中で三度吐き、適量を認識した。体育の授業で二度、美術の授業で一度。高校に入って最初に親しくなった女の子が描いた油絵を見て、我慢出来なくなってその場で吐いたのだ。油の臭いがいけなかったのだと僕は彼女に説明したが、それから彼女と親しげに話すことは無くなった。杏子はそれを聞いて、くくぅ、と喉の奥で笑った。ハイは言った。
「まぁ確かに不可抗力というのはあるさ、酒の力は偉大で僕達はそれに簡単には対抗出来ない、でも力を合わせればどうだ?僕達には明るい未来と輝く希望があるんだ、全地球人六十億人の力が集まれば、ビールでもブランデーでも、アルコール分70%くらいまでなら戦えるはずだろう、そう思わないか?」
ハイは最後まで適量を知らなかった。
七月の中旬。正確には十八日、木曜日。夏休み目前の暑い一日。ハイは一限の数学の授業中に缶ビールを二本飲み、昼休みにジンを開けて飲んだ。食堂で買ったヤキソバパンをつまみに最初はコーラ割り、最後はストレートで。そして、それが最期だった。彼はヤキソバパン最後のかけらを飲み込むのに失敗して喉に詰め、その上にいつも飲み過ぎて苦しくなった時にするように胃の中のものを吐こうとし、結果的に喉に上下からあらゆるものが集まり、窒息して死んだ。長い時間では無かった。僕は彼の背中を大きく殴ったが、彼はもう動かなかった。
写真部は解散、酒は没収。僕の高校は未だおおらかな校風で地元では有名だが、他にはほとんど規則も無いのに、生徒手帳にわざわざ「酒類を校内に持ち込むことを禁ず」と書いてあるのはそういった理由からだ。僕と杏子はハイの葬儀で泣き、杏子の家で死ぬ程酒を飲み、二人とも二度づつ吐いた。杏子は何も喋らなかった。僕もその日は杏子に倣った。
ハイの墓に、僕と杏子はコーラとビールを持って行った。三日前のことだ。「どっちがいい」と杏子は花に尋ねた。僕達はまだ酔っぱらったままだ。「もう二十歳だろ」僕はそう言って杏子の手からビール缶を取って開け、墓を濡らした。その日も暑い一日だった。
- 2002/07/16
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
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