火星に行くと言って、彼は消えた。スーツ上下にワイシャツ三枚、下着少々と一緒になって。紅茶も十パック程無くなっていた。それに気付いて、彼は本気なのだと私は思った。他は全て置いたままだった。山の様な書類、書物。命より大事なはずのコンピュータ。指輪もベッドサイドにあった。朝起きると彼はまずシャワーを浴びる。その時、彼は必ず指輪を外し、こうしてベッドの横に置く。一見したところ、いつもと同じ様子でもあった。でも彼は火星に行ってしまったのだ。紅茶を持って行ったのが何よりの証拠だった。
彼と再び出会った時、私は三つ年を取っていた。映画館だった。彼は一人だったが、私の隣には友人がいた。背の低い、男の、微妙な関係の友人だった。彼は最前列に座り、首を苦しく曲げるような格好で映画を見ていた。「トポロジカル・ウェディング」というタイトルの映画だった。内容はもちろん、覚えていない。私は最前列をずっと見ていた。席はガラガラ。私と微妙な友人は丁度中央のあたりに座っていたが、それより前にいたのは彼だけだった。一目で彼と分かった。一目で彼と分かった自分に驚いた。
エンドクレジットが表示され始めると、彼は何も未練も見せずに席を立った。それを見て、私は走り出した。後ろから微妙な声が聞こえたが、私は振り返らなかった。スタートが不利だとはいえ、恋人より足の遅い男が相手を幸せに出来るとは思えなかった。
彼はどこにもいなかった。電話がかかってきたが、友人からだった。私は電話の電源を切った。
いつか宇宙に行くのが夢だと、昔彼は言った。君は何か夢があるか?彼は私に言った。別に。かつての私は言った。幸せだったらそれでいいかな。彼は言った。まず火星だよ、運が良ければ木星の衛星にも一つ二つ行きたいな。彼は言った。ガニメデとか、エウロパとかね。一度で無理なら、二度でも三度でも宇宙に出るよ。彼は嬉しそうに言っていた。そんな話を、その夜、私は思い出した。
私は彼の指輪を引き出しから取り出し、ケースに入れる。それから自分のものも一緒に、ケースに入れた。ワンピースとシャツに下着を少々、スーツケースに詰める。女の荷物はどうしてそんな大袈裟になるんだ。かつて彼が言ったことを思い出す。私は言った。あなたの為でしょ。あなたが忘れている物を私が詰めるから、荷物が大袈裟になるのよ。私は少し可笑しくなって、笑う。彼の夏スーツに半袖シャツ、新しい靴下。
紅茶を二十袋スーツケースに入れた時は、相当強く押さないと蓋が閉まらなくなっていた。私はなかなか閉まらない蓋が可笑しくって、乗って全体重をかけながら、声を出して笑った。ガニメデってどんな所だろう。そんなの学校で習ったかな。スーツケースを片手にエレベーターを降りながら、私はそんなことを思う。
2002/07/25
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
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