苛々すると髪を切る癖がついた。普段はどちらかというと気長というか、あんまり周囲の物事を気にしないというか、無神経というか、苛々するということはあまり無い。しかしそんな僕にも月に一度くらいの頻度で、苛々することが起きる。そんな時、僕は髪を切る。うまい具合に出来ている。伸び過ぎることも無く、無い髪を切るということも無く。
昔の恋人から「メイルアドレスが変わりました」というメイルが届いた。最後に会ったのはもう半年も前で、連絡もまともに取り合っていない。同じ大学にいるのだから、どこかでうっかり会っても良さそうなのだと思う。付き合っていた頃はよく一緒に学生食堂で早目の夕飯を食べたものだ。彼女は夜その食堂でアルバイトをしていたから、その腹ごしらえというわけ。時々余ったコロッケを貰って帰って来てくれたので、翌朝にレンジで温めて半分づつ食べたりもした。今、食堂に彼女はいない。僕と別れて程無く、仕事をやめたと友人から聞いた。とは言え、働いていないとしても、たまにはここで食事を摂る彼女を見かけても良さそうなものだ。いつも優柔不断で、日替わりのおかずばかり選んでいた彼女を。しかし、彼女はいない。どこにもいない。ただ僕の、早目に夕食をとる癖だけが残っている。
親父に貰ったバリカンで髪を一気に切る。人の髪はだいたい一月に一センチ伸びると言われているが、僕のそれはもう少し伸びているように思える。髪が早く伸びる人は性的好奇心が旺盛だと聞くが、生物学的根拠は無いので信じない。それより疑問なのは、どうしてバリカンなど親父に貰ったのかということだ。詳細は忘れてしまったが、ともかくつまらない理由だったはずだ。誰かから貰って来たものを、使う宛も無いので僕にくれたというような、そんな感じの身も蓋も無い話のはず。
「メイルアドレスが変わりました」メイルの何が僕を傷つけたかというと、それが僕に書かれたものではなくて、不特定多数に宛てられたものだったからだ。「お久しぶりです。こんにちは」とメイルは始まる。一瞬、僕宛かなと思いたくもなるが、彼女は僕にわざわざ「こんにちは」なんて言わない。いつも短刀直入に要件を言う人間だったのだ。最後まで。メイルはこう続く。「プロパイダーが変わって、メイルアドレスが変更になりました。古いアドレスは今月末で使えなくなります。お手数ですが…」僕はディスプレイから目を離して、溜息をつく。それからもう一度ディスプレイに向き直り、良せばいいのにヘッダを確かめる。Toに彼女自身のアドレスが書かれている。以上。CCは無し。僕のアドレスはBCCに書かれたのだろうなと、僕は考える。他のアドレスと一緒に、他のアドレスに紛れて。
裸になってバスルームで髪を切り、そのままシャワーを浴びる。排水口に髪が澑まって詰まり、水が溢れる。僕はそれを用意したビニール袋に入れる。バスルームの鏡に僕が映る。新しい自分の誕生、とその度に僕は思う。今日から強くなろうと、僕はいつも誓う。例えば、昔の恋人からのメイルで一々凹むようなことの無いように。新しい自分を僕は想像し、その像を僕は歓迎する。新しい自分はいつもタフで、積極的で、理性的だ。居酒屋でビールがなかなかやって来なくても苛々しない。シャーペンが試験中に壊れ、一度のノックで芯がスルっとまるごと出て来たりするようになっても慌てない。恋人に「あなたといると落ち着いてしまって、前に進む力が湧いてこない」と言われても、そう言われて僕のもとを去って行ったとしても、新しい僕は泣かない。涙の一滴も見せない。新しい自分はタフなのだから。
それがちょうど先月の話。僕は今、考えている。今日の夕方、昔の恋人と一緒に、手を繋いで歩いていたあの見覚えのある男は誰だったか、と。確かに、どこかで見たことがある。ゼミの先輩?サークルの友達?紹介されたような覚えがある。僕は考える。バスルームで髪を切りながら。
2003/04/11
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
星新一賞入選のロボット子育て小話「キッドイズトイ」はAmazon Kindleにて100円で販売中。
それがどうした
数少ない友人であるところの山西が就職するので最後に送別会でもやろうと河原町今出川を少し上がったあたりの焼き鳥屋にいつもの面子が集まったのだが、肝心の山西が現れない。四人席に俺、その隣に鈴木、その向かいに田中が座り、俺の向かいである田中の隣は空のまま、既に小一時間ほど経っている。……
ゴールド
ありとあらゆる探知器に引っかかる。レコード屋の防犯ブザーに引っかかる。アフロヘアーの店員が飛び出して来て「すいません、あ、ちょっと確かめさせてもらって頂けますか?」とよくわからない丁寧語を操る。僕はいつも持ち歩いている小さなリュックを下ろし、開く。中にはカメラと手帳くらいしか入っていない。「あ、どうも、ありがとうございます。あ、すいません」とアフロヘアーの店員は礼を述べ、謝る。僕は店を出る。飛行場の金属探知機に引っかかる。ヴィーという、日本人には発音しづらい音が鳴る。男が無言で、小型の探知器を僕の体に寄せる。ヴィー、ヴィーと音は鳴り続ける。「後ろを向いて貰えますか?」と男。僕は後ろを向く。音は鳴り続ける。背中、足、腕、露出している手先でも、頭でも、探知器は鳴り続ける。ヴィー。「何か手術でもされました?」と男。俺は仮面ライダーか。ウルヴァリンか。そう思いつつ「いいえ」と言う。男、小首を傾げ「どうぞ」と前へ案内する。日本人は頭が固いと言われるが、こういう時は柔軟だ。事なかれ主義というか。手先から足先まで金属探知器が反応するのだ。いくら厳格な空港職員でも、対処の施しようがない。僕はそう思う。そう思うのだが、フランスでは二時間、どことも分からない道を通った奥の小部屋に閉じ込められてみっちりと調べられた。フランス語は「ウィ」しか知らなかったので、彼等が何を真剣に喋り、俺に問うていたのかは分からない。さっぱりだ。それに比べるとドイツ人は、英語で喋ってくれるだけましだった。監禁も一時間ほどで済んだ。もっとも、俺はそれが英語だと分かっただけで、英語はやはりまるで分からないので、会話はもちろん成り立たなかったが。……
妹
妹が戦場に行くと言って家を出たのが半年前、僕は近頃、戦争ドットコムで更新され続ける現地の死者のリストを眺め、その中に妹の名前がないかを調べている毎日を送っている。トップページから名前を入力すると、数秒の後に「お探しのお名前はないです」と表示される。機械翻訳なのだろうか、言葉がこなれていない。その表示を見て、僕は紅茶を飮み、少しだけ柔軟体操をして、眠る。最近は寒い日が続く。紅茶を飮まないと寝つけない自分は、どういう体をしているのだろうといつも考えながら、いつも答えを見つける前に眠る。……
半月
四年半付き合っていた恋人と別れた。別々の高校を同時に卒業した頃、何が契機という訳でもなく付き合い始めた仲だった。「付き合うのも悪くないんじゃない」と、恋人になる人間は言った。極端に断定形を避ける人間だった。それ程長く続くと思っていた訳でもなかったが、かといってすぐに終わるような気もせず、気付けば四年半が過ぎていた。……