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幻の青い麺

 東山通をまっすぐ北へ、北大路通も越えて更にもうすこし歩いたあたり、京都でも有数のラーメン激戦区である一乗寺に、その店も居を構えている。

 一見したところはまるでラーメン屋とは思えない店構え、暖簾もなければ看板もない。そもそも何らかの店のようにさえ見えない。活気とは無縁なのだ。木造一階建て、一見こじんまりとしたその建物は、かつては何かがあった、という感じの佇まいである。例えばそれは古びた長期休刊中の新聞印刷所のようであり、例えばそれは統廃合により捨て置かれた田舎の郵便局のよう。一本二本裏道に入ったせいか、一日のどの時間においても人影はまれである。人の流れというのは確率と統計から推測することが出来る。この店の前の小型車がせいいっぱいという幅の道は、誰にとっても不便な、あるいは不要な道なのだろう、住人たちは別の道で通勤し、通学し、午前中はスーパーへ向かい、夜中にコンビニへ行き、バス停から河原町へ出かけ、また戻ってくるのだ。

 初めての人は、薄く開かれた引き戸をガラガラと開くのに勇気を要するかもしれない。墓地のような、ひやっとした空気が中から溢れ出していることに気付くかもしれない。昔話に出てくる祖母から絶対に入るなと言われた納屋にふさわしいような扉である。しかし幸か不幸かその扉を開いても起きることは何もない。店主が「いらっしゃい」と陽気に声をかけることもない。扉を開く音それ自身以外、何一つ耳には届かない。そこは四畳くらいの部屋で、特筆すべきようなものは何も無い。特筆すべきではないようなものでさえ何も無い。要するにがらんとした小部屋である。先へ進む。

 暗く細い、病院の地下倉庫のような廊下を歩く。造りから推測するに大通りに面しているはずの道だが、外の様子が見えるような窓はなく、飾り気のようなもの自体何一つない。歩くたび不安になるようなその廊下を歩き、はじめの突き当たりでまず左、そして次の突き当たりで再び左を選ぶ。

 あなたはそこで驚いてはいけない。

 そこには大勢の常連客。小さな椅子に座っている。座りきれない者は立っている。そしてあなたを見ている。構造上、その待合室から店内は覗けないのだ。だからあなたを見ている。あなたが驚くかどうかを見ている。あなたが常連客かどうか。大勢は常連でない客を快く思っていない。この店を気に入ってしまったら、待ち時間がまた長くなるのだ。そしてこの店はきっと気に入られる。一方で大勢は他の常連客の顔を覚えていない。ここは暗いし、常連客といっても数が多過ぎるのだ。だからあなたが驚くかどうかを見ている。

 驚いてしまったなら帰った方がいい。さもなくば常連客同士の連携の良さを見ることになる。ある男が手を振ると、別の男がその横に走り寄る。二人は顔見知りでもないのに。この連携はいつまでも続く。二時間後あなたは余計に混雑した待合室で、先程よりも更に行列の後ろにいる。

 驚いてしまわなかったなら成功。あなたは行列の一員になれる。割り込み、押し合い、ちょっとした罵声が飛び交う。あなたは二歩進んで二歩戻る。そして運が良ければ一時間くらい後、悪ければ三時間くらい後になって、いつまでも足踏みを続けていたはずなのに、ふとドアと対面することになる。今や前に行列は無く、振り返ると無限のように続いている。そのドアはこの建物唯一の鋼鉄製であり、重い。あなたはそれをゆっくり、慎重に押して開く。

 二十分後、あなたは店の裏にいる。そこは大通りで、いつも誰かが歩いている。あなたは幻の青い麺についてほとんど何も覚えていない。財布からは小銭が綺麗に無くなっている。もう一度食べに来なきゃな。あなたはそう思って人通りと同じ方向へ歩く。

 

2005/07/30 - 2005/07/31

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この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。

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