南麻布にあるイタリアンレストランへ久々に寄った。なかなか人気のようで、遅い時間というのによく混雑していた。案内されたのは隅の席だった。席に座って、店内を見渡して、ふと隣を見たらそこにアイドルの根岸真理絵がいた。いや、彼女は二年三か月ほど前に結婚して、それから芸能活動を控えていたから、正確には元アイドルというべきかもしれない。
もちろん個人的な知り合いというわけではない。彼女を見たのは、テレビ各社が報道した結婚会見以来だから、やっぱり二年三か月ぶりだった。とはいえ、彼女を彼女と認識するのはむずかしいことではなかった。簡単に言うなら、彼女は昔と変わらず美しかった。彼女が二十歳のころ、テレビやグラビア誌を席巻していたころは、人気のあまりやつれて見えることもあった。しかしいまはずっと落ち着いた雰囲気で、体も心もしっかりと栄養をとっているに違いなかった。ますます魅力を増しているといっても間違いではないだろう。たしか今年で三十歳。私と同じ歳だ。
かつて私は彼女のけっこうなファンだった。彼女がまだ十代半ば、出来の悪いポップソングをひっそりと世の中に送り出してころから、私は彼女の虜だった。誰もが認めるとおり音痴だった。それは否定しない。踊りも雑だし、衣裳はいつだって、選んだ人間を張り倒してやりたいくらいの時代錯誤ぶりだった。はっきり言うと、森高千里になろうとしてなりきれない劣化コピーにすぎなかった。
でも私は、彼女自身がライブで、テレビで、作られたキャラクターを演じきれないでいるのを見るのが好きだった。しょっちゅう居心地悪そうな笑顔を作っていて、とても愛らしかった。そこにはなにか殼を破りそうな気配があった。私は熱心にファンレターを送った。若さゆえか、こんなふうな曲を歌えばいいのに、というようなアドバイスまで送った。返事がなかったので、跡をつけて家まで押し掛けたこともあった。玄関で私を出迎えた彼女は、笑って私の話を聞いてくれた。マンションの管理人がやって来るまで、ほんの数分のあいだだけだったけれども。
アイドルとしての寿命が尽きようとしていた十代の終わりに、彼女はテレビドラマの端役で一躍注目を集めた。ドラマという枠組みから彼女は明らかに浮いていて、作られた番組に飽き飽きしていた私たちはみんなその浮きぶりに飛びついたのだ。それからあとの快進撃は誰も知っているとおり。批評家たちは「等身大」「透明感」などといった言葉で彼女の演技を形容するのが精一杯だった。私に言わせれば、それは演技などではなかった。テレビの内側にいながら、内側を観測しているにすぎなかった。もちろん、その異質さが魅力だった。アイドルというのは異常な世界である。ふつうの人生であれば就職するかどうかという年頃で、もうほとんど人生を終えようとする。彼女はそんな世界を生きのびた。だから彼女の目には説得力があった。
レストランで会ったときも、彼女は同じ目をしていた。夫であろう男性と、荷物をどう片付けるというような話題で談笑していた。私は彼女を見つめていた。ふと、彼女と目が合った。彼女はにっこりと笑顔を見せた。私のことを覚えていたのだろうか。いや、そんなふうに自惚れるつもりはない。彼女はアイドルだったのだ。誰かと目を合わせたときは、機械的に微笑むようにできている。いつだって完璧な微笑みをつくることができるのだ。等身大に見える異質な笑みを。
残念ながら彼女たちは十分に食事を楽しんだあとのようで、私が前菜のパテを食べはじめたころにはさっと会計を済ませて、店を出てしまった。そのとき、私はきっと名残り惜しそうな視線を送っていたのだと思う。初老のウェイターが「気付きました? ときどき来るんですよ」と教えてくれた。それから私は毎日のように店に通ったが、彼女を見かけることは二度となかった。
2010/03/25 - 2010/04/15
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
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