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 深夜の交番に、慌てた様子の女が現れる。「助けてください」と女。「さっき、路地裏に虎が現れて、私はなんとか逃げたけど、友人は噛みつかれて」

 交番の暗い明かりに照らされた女は、ずいぶん赤い顔をしている。寒さのせいか、走ってきたせいか、それとも酔っぱらいか、そういう化粧が流行っているのか。年齢は二十代後半から三十代の前半。ファッションに疎い警官でも知っている高級ブランドのコートを着て、同じブランドの小さなポーチを抱えている。

「どのあたりの話です?」と警官は尋ねる。

「すぐ、すぐそこの路地です」と女は指差す。

 警官はこの時間、この小さな交番を一人で担当している。一人の時間は嫌いではなかった。仕事がなければ。「とりあえず、ちょっと見に行きましょうか」と警官は言う。

「いや、私は、ここにいます」と女。

 ふーむ、警官は無言で頷くと、外へ出る。虎なんて久しく見てないな。動物園にもいたりいなかったりする。女が指差した路地まで歩き、懐中電灯で暗がりを照らしたが、幸いそこに虎の姿はなかった。ただよく見ると、黒いアスファルトに黒い血が点々と落ちている。血はさらに狭い路地へと続き、それから大通りに出て、ぐるりと角を曲がると、そこは交番だ。

 そう来たか、と警官は血の跡が続く交番に入る。女の姿はすでにない。彼女が持っていた高級ブランドのポーチが床に落ちて、中から同じブランドの財布が顔を出している。

 

 翌日、ちょうど非番だった警官は動物園へ行く。虎というのはどういう動物だったか。見てみると、虎はガラス張りの檻の中にいて、落ち着かなくうろうろと歩いていた。大きな猫だな、と警官は結論付ける。

 空腹になったので園内のレストランへ行く。幼児を連れた母親ばかりで居心地が悪い。テラス席でハンバーガーを食べながら、虎が行方不明になったというようなニュースはないかと一応調べてみたが、見つからなかった。

 他に見たい動物もないので、警官は再び虎へと戻る。さきほどまで彷徨っていた虎は、今はごろんと寝転がっている。

「えー、寝てるー」と後ろから女の声がしたので振り返ると、昨日の女とよく似た女が、男と腕を組み、はしゃいでいる。横目で女の顔を見てみるが、そもそも昨日の女の顔が思い出せない。また別の高級ブランドのコートを着て、そのブランドのポーチを持っている。

 男のほうは、いかにもつまらなさそうに虎を見下ろしている。「これはただの大きな猫じゃん」と男は言う。

 

2022/01/01 - 2022/01/13

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この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。

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