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紫の人

 昨日ニュースを見ていて、何年前だったか、私が高校生の時だからたぶん五年くらい前になると思うのだが、紫の人に会ったことを思い出した。

 

 紫の人は私たちの高校では有名な人物だ。私たちの高校は山の麓にあって、ほとんどの人が電車通学だったのだが、その電車に全身紫の人がよく乗り合わせているという話だった。昼休みのクラス、放課後のクラブ活動の合間、寄り道したマクドナルド、下校の電車内、一週間に一度はどこかで誰かから紫の人を見かけたという話を聞いた。紫の人は、服装はもちろん紫色のスーツで、どの店でも見たことがないような「ま紫」色のアタッシュケースを持ち、履いているのは紫色の皮靴、髪まで紫色に染めているという話だった。

「違和感がないの」私の親しい友人で、一番最初に紫の人を見かけたエビーはそう言った。

「目の前の席に座ってたのに、最初は全然気付かなかった。だけど途中の駅でおじいさんが乗ってきて、席を譲ろうかどうしようかと迷っていたら、さっと男の人が黙って立ち上がったのね。あ、なんていい人、と思ったらその人の服が、それから鞄も靴も髪も、紫だったの」

 不思議なことに、紫の人に出会うのは、いつも一度で一人だけだった。私たちは、女子高校生という性質により、集団で行動することがほとんどだったが、そうして形成された一つの集団が一斉に紫の人を見かけるということは一度もなかった。いつもの電車に乗り遅れた誰か、クラブの朝練に早く出て来た誰か、普段はグループに属さない誰かが、紫の人の目撃者になるのだった。

 目撃者によると紫の人は、若くも年寄りでもなく、背が高くも低くもなく、太っても痩せてもいないということだった。「背は高かったかもしれない。年寄りだったかもしれない。でも紫ってこと以外は、全部忘れてしまって思い出せない。あの紫だけが印象的すぎて」私のクラスメイトで、誰ともそれほど親しくないジリはそう言った。

 

 紫の人がどこへ向かい、何をしているのかは誰も分からなかった。そしてそれを想像するのが、私たちの趣味の一つだった。

「ヘアカラーのセールスマンだって」ミステリー小説好きのハルが言った。彼女はまだ紫の人に会ったことがなく、会ってその謎を解くことを熱望していた。「紫色の髪はその宣伝。営業に行く先々で、紫の人はこう言う。『私の髪をごらんなさい。見事な紫。実現するのはこのヘアカラー』」

「たんなる、あぶない人なんじゃない」ナキコが答えた。彼女は遅刻の常習犯で、紫の人に二度会ったことのある数少ない一人だった。「普通の格好じゃないよ。変態。その確率が一番高いって」

「でも、おじいさんに席を譲ってたよ」とエビー。

「そういう律義なところが、余計に怪しいのよ」とナキコ。「変態って、どこか一部だけ、すごく変な人のことなんだから。まるまる変な人じゃなくて」

「変態でもいいから、会ってみたいなあ」ハルは呟くように言った。「私、会ったら直接聞いてみる。『何の仕事をしてるんですか』って。楽しみにしてて」

「何されるか分からないよ。紫色の家の地下に連れ込まれるのかも」ナキコはそう言って、ぶるっと身体を震わせた。

 

 ハルは結局、最後まで紫の人に会えなかった。紫の人は、会いたいと思っている者を避け、そう思っていない者の前に姿を見せる能力があるようだった。そのかわり、ある日ナキコが三度目の出会いを果たした。

「紫色の鞄を開いたの。何が出て来たと思う?紫色の本よ。ブックカバーじゃなくて、本当に紫一色の本。熱心に読んでた。何が書いてあるのか、想像もつかない。どうして私ばっかり会うの」ナキコは半分涙目になりながら言った。「もしかしてストーカー?」

「営業のテキストよ」ハルは悔やしそうに言った。

 

 それからしばらく、紫の人は私たちの前に現れなくなった。ナキコの糾弾が聞こえたかのように。自然と、私たちは紫の人のことを話題にしなくなった。紫の人は、誰かの新しい目撃証言があって、初めて盛り上がれる話だった。

 私が紫の人と出会ったのが、そのようにしてほとんど紫の人のことを忘れかけた頃だというのは、ある意味では当然のことのように感じられる。

 

 それは模試の行われる日曜日の朝だった。試験会場の予備校に向かうため、いつもと同じ路線の、学校へとは反対側に進む電車に、私は乗っていた。一夜漬けを敢行した私は、座席に深く座って電車に揺られるうち、うつらうつらと眠りかけていた。そしてある時、眠ってしまったのだろうか、がくんと首、そして上半身が、大きく左に揺れた。ごつ、と鈍い音がした。左隣の人に体がぶつかったことに気付いて、私ははっと目を覚ました。「すいません!」私は必死に自らを覚醒させながら謝り、左隣の人を見た。

「大丈夫ですよ」左隣の人はにこやかに言った。その人は紫色のスーツを着て、紫色の鞄を膝の上に置き、髪を紫色の染めていた。

「あっ!」私は思わず声を上げた。すっとんきょうに大きな声を。「紫の人!」ともう少しで私は言うところだったかもしれない。

 紫の人は、不思議そうにこちらを見つめていた。思っていたよりは若い、しかしよく見れば老けたところもある、女性的な、とは言え男性的な側面も多いにある、そんな顔だった。つまり、こうして後になって振り返ってみると、ジリの言った通り、私は紫の人のことを何も覚えていないことに気付く。

 こちらを見つめ続ける紫の人に対して、私は何も無いんですという風に軽くジェスチャーで示して、鞄の中から参考書を取り出し、平静を装った。もちろん、参考書が何かの参考になるような精神状態ではなかった。自分の胸が、これまでに覚えのないようなリズムで鼓動するのが聞こえた。どうして?と私は思った。どうして、今ここで?それからどうして、私の胸が高鳴る?

 私のジェスチャーに納得したのか、紫の人はこちらを向くのをやめた。そして少し迷うような素振りを見せてから、おもむろに鞄を開いた。鞄の中は、キラキラしたもので一杯だった。あまりの輝きに、私は目を細めた。同時に、紫の人が、思いがけず大胆に秘密を公開したので、私の鼓動はまた一段と早くなった。朝の光が窓から絶え間なく流れ込むため、それらを反射する鞄の中身は輝きを止めなかった。その輝きの鋭さを見るうち、まるで鞄の中のものが、太陽のように自ら輝いているような錯覚を受けた。そのキラキラしたものに、もう少しで私は手を伸ばしそうになっていた。幸か不幸か、その前に紫の人は、開いた時と同じくらい唐突に紫の鞄を閉じた。そしていつの間にか取り出した紫の本を開け、熱心に読み始めた。

 私は自分の参考書の陰から、なんとか紫の本を覗き込んだ。ハルの推理とは異なり、それは手掛きのノートのようだった。地図、それから新聞の切り抜きが見えた。それらの切り抜きに、ペン、もちろん紫色で、何かをマーキングし、時にはメモを記しているようだった。

 電車は終点、予備校のある駅に近付いていた。ハルの質問、「何の仕事をしてるんですか」が私の頭の中で大きくなったり、小さくなったりした。彼に出会う機会はもう二度とない。私は思った。私はもう、消しようがないくらい、彼に興味を抱いてしまった。ナキコのように何度も会うことは出来ない。明日から、私は毎日彼の姿を探すだろう。そして、それゆえに彼を見つけることは出来ないだろう。私はそう確信した。

 実際、その通りになった。私はそれ以降二度と紫の人に会わなかった。

 どんな表情で、私は彼を見ていたのだろう。声をかけるべきか悩み、苦悶の表情をしていたに違いない。電車はついに終点に着いた。私は意を決して立ち上がり、まだ座席に座ったままの紫の人の前に立ちはだかって、ハルの質問をぶつけようとした。しかし、先に立ち上がったのは紫の人だった。音もなくさっと。いつの間にか紫の本を紫の鞄に片付け、逆に私の前に立っていた。

「二つだけ言っておきましょう」紫の人は言った。静かな、しかし駅独特の雑然とした騒音に負けない、真っ直な声だった。「僕は芸術家です。大袈裟に言うならば」彼はゆっくりと微笑んだ。「そして真の芸術というのは、他人には分からないものです」

 何か返事をしようとした時、既に紫の人は雑踏の中に消えていた。

 私はその日の模試で、高校生活で唯一の第一志望E判定を得た。

 

 今になって考えると、あの紫の鞄の中でキラキラと輝いていたのは、何か薄い金属片だったような気がする。金属片は鞄の中で折り重なり、窓からの光をあちこちに反射させ、その光の一部は別の金属片へと伝わり、そしてまた別の金属片へと、光の渦を引き起こす。その瞬間を、私は見たような気がする。紫の人の持つノートには、その光をあちこちに伝搬させるため、複雑に折れ曲がった金属片をあちこちに取りつけた、その地点を記していたのではないかと、私は想像する。

 久々に私は、紫の人のことで頭を悩ましていることに気付く。彼にもう一度会えたなら、その時は私から質問出来るだろう。だがしかし、その機会は、彼のことを思い出した今この瞬間に失われてしまったことを、私は強く認識する。

 

2005/06/06

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この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。

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