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虫歯

 齢三十になってはじめて虫歯が出来た。はじめ私はそれがなんだか分からなかった。それについての知識を、ほとんどなにも持っていなかったのだ。二日ほど一人で悩んだあげく、私は実家に電話をした。

「口の中が痛い。水を飲むと、左奥の歯と歯の間がキリキリする」

「あんた、それは虫歯よ」母は言った。「だから言ったでしょう、ちゃんと歯を磨きなさいと」

 言った。私が実家にいたころは。もう十年以上の前のことだ。

「ぜったいに虫歯なんだから」母の声はどこか嬉しそうだった。乱雑に、撫でるようにしか歯を磨かないというのに、これまで虫歯一つなく過ごしてきた。そんな子供を母はどこか許しがたく思っていたに違いない。「竹内さんのところ、予約しておいてあげる。今週末でいい?土曜日の午前中」

 竹内さんというのは、母が以前ずっと通っていた、彼女いわく腕のいい歯科医だ。「ずっと通っていた腕のいい歯医者」私はそのフレーズの矛盾に気付かないことにする。

 その歯科は、実家から歩いてすぐのところにある。私はスケジュールを確認してから「そっちに帰るよ」と言った。そういうわけで、私はいま竹内歯科の前にいる。そこは小学校・中学校と、登下校の折りにいつも通った道だった。だが中に入ったことは無かった。

 ドアを開けるとカランカランと古い喫茶店のような音が鳴った。ピンク色の白衣を着た看護婦が、すっと立ち上がった。私は自分の名前を告げる。すこし歳をとって見えるその看護婦は、大きく頷いて私に問診票を手渡した。私は名前や住所を書き、綺麗な歯並びの図の左奥に×印をつける。看護婦はまた頷き「奥へどうぞ」と言った。私はその通りにする。

 質素な受付と異なり、奥の部屋はテレビのセットのようにさまざまなものが整然と置かれていた。機械の椅子と、対になった口内を照らすのであろうライト、銀色のトレイに並べられた様々な器具、ラベルの無い瓶が詰まった棚。マンガに出てくるような、歯をガリガリと削る機器がどこにあるのか注意深く探したが、見つからない。「こちらへおかけ下さい」と看護婦が一つの椅子を指さした。私はその通りにする。「少々お待ち」看護婦は言った。なぜ命令形だったのかは分からない。椅子に座っている間は命令形、という暗黙のルールがあるのだろうか。歯医者での心構えについて、ググってから来れば良かったと私はすこし思う。

 何分経過しただろうか、すこしウトウトとしはじめたころ、ようやく医師が現れた。大きな体に大きな眼鏡をかけ、中年独特の冴えない笑顔を浮かべた医師は「ごめん、待った?」とカジュアルに尋ねた。そして返事を待たず「じゃ、ちょっと口を開けてみて」と言った。私はその通りにする。すぐさま、太い指が二本、口の中に侵入してくる。続いて細いステンレスの棒。先端に鏡がついているようだ。

「君、うちに来るの初めてだよね」医師は言った。私は口を開かされたまま頷く。「引っ越して来たの?」私は首を振る。「じゃあ、これまでどこの歯医者に行ってたの?」私はすこし待って、唇にひっかかった指の力が弱まったタイミングで「虫歯ははじめてなんです」と精一杯に言った。実際にどのように発音され、医師の耳にどうように届いたかは分からない。「そうか、そうか、それは結構」医師はそう言ったから、きっと通じたのだろう。「偉いもんだ。みんな見習って欲しいところだよね。最近は二歳とかの子供まで虫歯だから。嫌になっちゃうよ、毎日虫歯を見せられて。君みたいにね、みんなちゃんと歯を磨いてくれたらな、と思うよ。まあそうすると僕は仕事が無くなって困るんだけど」そう言って、医師は最高のジョークを言ったとばかりにひとしきり笑った。太い指を私の口に入れたまま。

「バキューム」と落着きを取り戻した医師は言った。いつの間にか隣に現れた先程の看護婦が私の口に新しい機器を入れ、その機器を作動させた。ゴオオオという音と共に、口の中の唾液が吸いとられていく。医師はまたなんとかと言ったが、バキュームの音で私には聞こえなかった。看護婦は片手でバキュームを持ったまま、もう片手で器用になにかの器具の準備をしている。「痛かったら言って」医師はフランクにそう言い、全く気付かぬうちに手にしたドリルを私の歯に当てた。気付いた時には、口の中でドリルがギョルギョルと音を鳴らして動き回っていた。あっという間の出来事だった。痛くはなかったが、そのぶん気持ちが悪かった。私の体が私の知らないところで死んでいくよう。医師の額につけられたヘッドライトが、眩しく私を照らした。私は目を閉じて全てが早く終わることを祈り、開いて状況が好転していないか確かる。

「あれ?」医師がすっとんきょうな声を出したのはその時だった。ドリルは依然ギョルギョルと、バキュームは依然ゴオオオと、競い合っている。「君は三十か」

 私は医師の目を見た。医師は愉快そうに微笑んでいた。「三十か」医師はもう一度言った。私は視線を合わせて、それから目だけで頷いて見せた。「じゃあもしかして」医師はそう言ってドリルを引き抜き、動かしたままそれで壁の方を指して「中学はそこのかい」と言った。私はまた視線が合うのを見計い、目だけで頷く。「なんとまあ」医師はまたドリル作業に戻りながら言った。「つまり僕と同級生というわけだな」私は曖昧に微笑む。曖昧に微笑む以外のなにが出来ただろう?

「何組?」医師はますますフランクに言った。「三年の時さ」

 私は自分の腿のあたりをもぞもぞとしていた右手を持ち上げ、人差指だけを突き出した。「菊野先生のところか」医師はドリルでくるくる円を描きながら言った。「奇遇だなあ。先日、彼の最後の歯を抜いたよ。このすぐ側に住んでるんだ。彼は僕の最初の患者だったんだ。うちのおやじが死んで、ここを継いだのが半年ほど前のことなんだけど…聞いてるかい?」私は頷く。「そういう僕は残念ながら三組だ。でも菊野先生の悪評は聞いてたからね。竜也は知ってるよな?一組だもんな。あいつから聞いてたのさ。半年で七本抜いたよ。『今のうちに抜かないと大変ですよ』って七回言ったんだ。人間ってのは四種類に分けられるんだよ。A型、B型、O型、鼻つまみもの、この四種類だ。僕はA。菊野先生は鼻つまみものさ、きっと生まれた時から。そういえば、ナツ」

「はい?」看護婦が答える。

「君は一組だったよな?三年の時」

「ええ」

「ならそれを早く言いなよ」医師は笑った。それからジェスチャーと共にずっと宙をさまよっていたドリルを、私の口の中に戻した。再びなにかが削れていく。「彼女は同級生だったんだ。気付いたかい?」医師は私の方にぐっと顔を寄せながら言った。私は動けなかった。「ナツは、気付いた?」医師はそう言って看護婦の方を見た。私の口の中では相変わらずなにかが次々と死に向かっている。

「さっき気付いたところです。問診票を読んで」看護婦はゆっくりと頷いた。

「なるほどね、なるほど。実のところ僕達は結婚するんだ。おやじの喪が終わったらね。君にもぜひ招待状を送ろう。君に限らず、患者にはみんな来て欲しいね。幸福じゃないか。自分が診てきた患者に囲まれてさ」

 その時、カランカランと音が鳴った。

「そうだったそうだった」医師は言った。

「もうそんな時間でした」看護婦は言った。

「誰もいないのかい?」入口の方から男の声。「誰もいないのなら鍵を閉めるはずでしょ。医者って自分のことは用心深いんだから」こちらは女の声。

「マルカとマルキの姉弟のことは覚えているだろう?」医師は声を細めて言った。「あの痩せた双子さ。知ってるよな、三年一組だもんな」私は何かジェスチャーを返したかったが、ドリルを恐れて動けない。

「こっちにいたのかい」男、マルキがこちらの部屋に現れて言った。「珍しく不用心じゃない」遅れて入って来た女、マルキが言った。私はすこしだけ首を傾けて、二人の姿を確認する。どちらもずいぶんと皺の目立つ顔、そして記憶に無い顔だった。

「もうちょっとお待ち下さい」看護婦は言った。

「それより面白いことがあったんだ」医師は言った。「この椅子に横たわる彼、誰だと思う?一度で当てたら今日の診察は無料にしよう」

 マルキは少し考えて、私の名前を言った。

「すごい!」医師は興奮した。

「菊野先生を呼んでこよう」マルカが唐突に言った。「君に会いたがってたよ」

「じゃあ私も友達を呼ぶね。一組の人なら、まだ付き合いがだいぶ残ってるから」マルキは言った。

「じゃあ他の患者も呼ぼう。三組や、四組の連中を」医師は言った。「ついでにすこし早い婚約発表にするんだ。このアイデアはどうかな、ダーリン」

「じゃあ私も同級生を呼んできます」看護婦は言った。

 ほどなく、部屋は大勢の人達で溢れていた。一組は一組で一つの隅を、三組は三組で反対の隅を占拠し、はぐれ者は曖昧にあちこちを動いていた。中央に私が横たわる椅子があり、その脇では医師が看護婦を片手で抱き、もう片手でワインを飲んでいた。私の口の中では依然としてなにかの機器がなにかの動作をしている。誰かが有線のチャンネルを環境音楽からソウル・ミュージックに替えた。マーヴィン・ゲイの甘い声が部屋に響く。医師が看護婦の腰に手をやって踊ると、一組の人間は拍手喝采、三組の人間は卑猥な言葉ではやし立てる。はぐれ者の一人が隠し持っていた手品のわざを見せて、部屋に鳩が二羽、兎が三羽現れた。ふるまわれたワインで早くも潰れた男が、音楽に合わせて壁をてのひらで叩く。バンバン、バンバン。他の酔った男達がそれに続く。女は笑い、奥歯の詰め物を見せ合う。すっかり白髪になった菊野先生は手を上げてなにかを言おうとするが、誰も彼に注目しない。バンバン、バンバン。彼がなにか口を開こうとした時、女の一人が特大のクラッカーを鳴らす。パーン!と激しい音と共に、色とりどりのリボンが部屋中に放たれる。中でも勢い良く飛び出した真っ赤なリボンは、私のはるか上を通り過ぎ、一組から三組へ、そしてどこまでも遠く飛んで行く。

 

2005/07/20 - 2005/07/27

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このページにある全ての記述は、特に明記のない限りフィクションです。また著者である小関悠が個人の立場で書いたもので、所属する組織などの立場や意見を示すものではありません。
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