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パンの国に帰れ

 百万遍で号泣した。信号が青になるのを待っていたら串八のネオンが眩しく輝いているのが見えて、それで気付いたら泣いていた。「どうかした?」と隣の人が言うのが聞こえた。自分でも驚くほど、涙が出てくる。耐えられなくて、僕は走った。まだ赤信号のままだったけど、車に轢かれることは無かった。何故かというと、何故かは分からないが、つまり轢かれなかった。夜も遅くなっていたし、交通量が少なかったのかもしれない。

 

 卵焼きの端っこが好きだ。巻き寿司の端っこも好きだ。食パンの端っこも好きだ。これらは全て、同じことを示しているような気がする。しかしそうではない。世の中には、自分と少し似ていて、後は全然違う人というのがうようよいるのだ。先日会った人は、居酒屋で卵焼きの両端を目ざとく奪って行った故に僕の同類かと思ったら、食パンは真ん中が好きだと言うのだ。「パンの耳なんかね、無くなっちゃえばいいんだよ、この世界からね。パンの国に帰ればいいんだよ、耳はね」その人に言わせると、食パンの端っこは耳の中の耳で、直方体の五面を耳に覆われた悲惨な食物ということになる。「ある朝起きたらパンの耳がこの世の中から無くなっていないかな、といつも考えるよ」その人は言う。「そうなったら、でもパンの耳のことなんて一切考えないのだろうな。無くなったことに気付いたりなんかしないと思う。すっと、風のように僕の世界から消えていくだけのことだよ」僕はじゃあ、逆にある朝起きたらパンの耳だけしかない世界になっていたらどうするかと尋ねた。その人は言った。「食べるんじゃない?パン、好きだし」

 

 母か電話をかけてきた。従兄弟が希望していた高校に合格したらしい。そしてその彼に僕の母が「将来何になるつもりなの?」と聞いたそうな。母は保母さんをしているが、そのせいか誰に対しても幼児扱いをする。「風邪ひいてない?布団かぶって寝るのよ」というのが母の口癖だ。そう、従兄弟の話だった。将来の目標を尋ねられた従兄弟はこう言った。「ラッパーになる。ハードコアなやつ」威風堂々と。ハードコアってどういう意味?と母は僕に言った。中が固いとか、そういうのじゃない?と僕は答えて電話を切った。

 

 優香好きの高井くんが、東京駅で釈由美子に会ったと興奮して語っていた。「美人よ!美人!水着じゃなかったけど!」

 

2004/01/24

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この文章は小関悠が個人の立場で書いたもので、所属する組織などの立場や意見を示すものではありません。特に明記のない限り、この作品はフィクションです。

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