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月食

 そう言えば今日は月食らしいよと、ランチの時に誰かが言った。「そうなの? みんなで見に行かなきゃ」とAは言い、向かいに座っていた私に「行く?」と聞いた。私は、じゃあ、と答えた。他の人たちは「今日も残業になりそう」などと笑っていた。

 

 約束の時間にオフィスの前で待ち合わせると、そこにいたのはAだけだった。「一人じゃなくて良かった」とAは言い、駅と反対へ歩きはじめた。「あの丘の公園に見晴り台があるんでしょ。あそこからなら良く見えそう」と、Aは言った。

 

 月まで38万キロほどの距離があるのに、少し高台へ登ったところで違いがあるのだろうか。私はそう思ったけれど、黙って歩いた。

 

 丘の公園は昔はちょっとしたデートコースだった。いまは駅前が栄えて、こちらを歩く人は減った。Aは夏頃に転勤してきたばかりで、このあたりの地理感に詳しくない。

 

 見晴り台までの階段は思っていたより長く、黙々と登るうちに私もAも息が上がっていった。

 

「思ったよりもしんどいね」とAは言う。「これでも大学時代は運動部だったんだけど」テニス部でしょ、と私は思った。転勤してきた時の自己紹介で言っていたから知ってる。

 

 見晴り台についたとき、月はすでに翳りはじめていた。暗い公園に人はほとんどいない。Aはスマートフォンで撮影をはじめた。「ずいぶん綺麗に撮れた」とAは言って鮮かな写真を見せる。

 

「最近のスマートフォンのカメラはAIが搭載されていて、月は月らしく加工して撮影してくれるから」私がそう言うと、Aは驚いていた。

「知らなかった」とAは言う。「じゃあこれは偽物の月か」

 

 私が古いスマートフォンで撮影すると、実物よりさらにぼやけた月食が写った。「それじゃあ思い出にならないね。偽物の写真を送ってあげる」とAは言った。「かわりに本物の写真を送ります」と私は言い返した。

 

 それからAは私にポーズをとらせて、月とのツーショットを撮った。写真の私は、もちろん実物より綺麗に見えた。おかえしに私はAの写真を撮った。

 

 あれから数日が経ち、Aから写真が送られてくることはなかったが、だからといって私から送る気にはなれなかった。職場で顔を合わせても、Aはあの夜のことを持ち出すことはなく、私も写真のことを切り出さなかった。私のスマートフォンには、ノイズだらけの暗がりの中に、ぼんやりとした輪郭で写るAが残されているが、今となっては記録はそれだけであった。本当はそれほど特別な夜ではなかったのだろう。人間の脳もAIと同じで、私は自分の都合の良いように記憶を加工しているのかもしれない。

 

2022/11/14

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この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。

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