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父の仕事:コトコト日本代表

 コトコトの日本代表だったことを殊更に自慢するつもりはない。ただいくつもの偶然が重なってそうなった。なんであれ日本代表に変わりはないと言う人もいるけれど、例えばサッカーや野球の代表に選ばれるのとはまったく違うと自分でも分かっている。ただ、いまでも時々あの喧噪の日々を思い返すことがある。日本代表としての日々だ。

 

 いまでこそ「東欧のアメフト」と呼ばれるコトコトだけれども、発祥はアメリカそのものよりずっと古い。もともとはポーランド王国の弱小貴族が小数の臣下と戦争ごっこに興じたのがはじまりと言われている。ハンガリー王国を起源とする説もある。いずれにせよコットコトというのが原語に近い。

 

 システムは確かにアメフトに通じるところがあって、攻守に別れたふたつのチームがパスを投げたり防いだりするという意味ではまったく同じだ。ただし一チームは八人構成である。攻撃チームでパスを投げる役、アメフトでいうクォーターバックの役割を果たすのが、チームの要コトコトだ。とはいえコトコトはボールを持っていないときなら攻撃中いつでも「コトコト」と言いながらチームメイトに触れ、コトコトの権利を移すことができる。

 

 この奇妙なスポーツを知ったのは大学生のときだ。ジャズ研究会の先輩に村上さんさんという人がいて、彼はポーランドに留学経験があった。ある日の午後に外で体でも動かそうということになって、そういえば面白いスポーツがあると村上さんが私たちにルールを教えてくれたのだ。すぐに私を含めた何人かがジャズよりもコトコトにのめり込むようになり、さらに仲間を増やそうと学園祭で実際の試合を公開。これがマイナースポーツに興じる学生たちがいると地元のテレビに取り上げられ、ハンガリーの大使館に伝わり、いろいろあって翌年のワールドカップに日本代表として招待されるという騒ぎにまでなった。

 

 当時はコトコトのことなんてほとんど誰も知らなかった。この国にほかのコトコト競技者がいるとは思えなかったし、全日本コトコト協会もまだなかった。だから私たちが日本代表を名乗ってもなんの問題もないのは確かだった。それでもサークル活動のお遊びから日本代表というのはずいぶんな飛躍だ。辞退しようという仲間も多かった。しかし動き出した流れは止まらない。周囲が日本代表として持ち上げて離さなかった。大使館の誘いにどう対処すべきか悩んでいるころ、ジャズ研究会のボックス裏でボールを投げあっていたら、日本代表合宿開始とワイドショーに取り上げられた。

 

 結局、私たちは断われなかった。なんと優しい日本人。翌夏、私たちはコトコト日本代表としてハンガリーの地を踏んだ。ブダペスト・オリンピック・スタジアムに登場したのはその三日後。諸戦の相手は堅守速攻で知られるウクライナだ。

 

 コトコトのルールを簡単におさらいしておく。基本は相手チームに奪われないよう、ボールを回してゴールに入れればいい。ゴールはバスケットボールのようにフィールドの端に掲げてある。ゴールしたときに入る得点はコトの数による。コトというのは、コトコトからチームメイトにパスをすることだ。つまりコトコトにボールを集め、コトコトはチームメイトにボールを回すというのを繰り返せば、そのぶんだけ一度のゴールで入る得点が大きくなる。前述のとおりコトコトは交代することもできるので、どのように役割を変えながらパスを回していくかという戦術が求められる。

 

 試合は四クォーターに分かれ、一クォーターは七分。ボールが外に出たり相手に奪われたりしたとき、あるいはゴールを決めたときはライン終了。攻守交代だ。残り時間がなくなっても、そのラインが終わるまでは続く。つまり原理的には、得点差のぶんだけコトを繰り返すことで、いつでもいつまでも逆転のチャンスがある。前回のワールドカップ、スイスを相手にロシアが最終ラインで三十コト差を逆転したことは記憶に新しい。俗に言うサンモリッツの悲劇である。どれだけコトを重ねて、どのタイミングでゴールに向かうか、コツコツやるのか派手にやるのか、冷静な判断が求められる。

 

 ウクライナはコツコツ型のチームだ。ヴォロチェンコとシェフチュクのふたりが素早くコトコト役を交代しながら、ワイドのロコロコにボールを展開する典型的な2−4−2フォーメーション。長身のロコロコたちへのボールは、分かっていてもなかなか止められない。マンマークにつけば隙を見てゴールを狙われ、3〜4コトでの速攻を繰り返された。一方で、私たちは強気に8〜10コトを得るまでボールを展開。地力の差は否めなかったが、シェフチェクのパスが不安定なことにも助けられ、前半を終えて29対38となんとか健闘していた。ハーフタイムを迎えロッカーに戻るとき、スタジアムは私たちを大きな拍手で迎えていた。強豪相手の果敢な戦いぶりを称えてくれたのだ。あるいはオッズの高い東洋人にいくらか賭けていたのかもしれないが。

 

 スタジアムの温かい雰囲気のせいか後半はさらにいい試合となった。足がよく動き、美しいパスワークを披露しては場内に何度も喝采を巻き起こした。得点差を縮めることできなかったが、第三クォーター終盤になってもまだ10コト差内に食らいついていた。世界ランク十位のチームを相手にしているとは思えない試合展開だった。

 

 第四クォーターになるとシェフチュクに悪影響を受けたかヴォロチェンコまで簡単なミスを犯すようになった。コトコトだけが悪いのではない。ウクライナ代表全員の足が止まっていた。代表といっても、国内大会を勝ち抜いてきた公務員のチームだ。シェフチュクは小太りの中年で、息を切らせ足をどたどたともつれさせるように歩いている。右ロコロコのポポルドルは腰に手を当てて、ハイボールが飛んできてもジャンプする体力が残っていない。前半に見せたような速攻は見る影もなく、無理なパスを狙っては私たちにカットされていた。私たちは学生で、運動神経抜群というわけではなかったが、まだ十分に若かった。

 

 左ガロックの私がポポルドルへのパスをインターセプトしたとき、試合は残り三十秒を切っていた。これが最後のラインになる。スコアは58−60。2コト以上のゴールを決めれば逆転だ。日本代表のフォーメーションは当時としては先進的な3−3−2。村上さん、同窓生の佐々木と三井がコトコト役を交代で担う。もちろんウクライナ代表も黙って最後の最後に試合をひっくり返されるわけにはいかない。最後の力をふり絞って三人に激しいプレスをかける。村上さんは抜け目なく三井へとボールを渡し、直後にコトコトを佐々木へ。三井は受け取るなり佐々木にすぐボールを回し、守備陣が混乱しているあいだに佐々木が三井へボールを戻す。これで2コトだ。佐々木は村上さんへコトコトを戻すと、三井は芸術的なワンバウンドパスで村上さんへボールをパス。その瞬間、村上さんと目があった。私はゴール前にいる。村上さんのロングボール。三人に集中していた守備陣が慌ててゴールに戻る。間に合わない。私はボールをキャッチする。これで3コト。ガロックはおろか近くに一人も敵がいないことを確認すると、私は落ち着いてシュートを撃つ。

 

 それから先のことを言う必要はないだろう。コトコト日本代表はそれからノルウェー代表、そして地元ハンガリー代表にも連敗した。出発時は大勢のファンとテレビカメラが見送ってくれたが、帰国時は誰も迎えてくれなかった。今でもときどき、運動がわりにシュートの練習をすることがある。あの逆転シュートが決まっていたらみんなどんな顔しただろう。なにか人生が変わっただろうか。たぶんなにも変わらなかっただろう。マイナースポーツに挑む学生たちの奮闘。勝利で幕を閉じたにせよ、敗北に終わったにせよ、すぐ忘れられる程度の物語だったのだ。誰かがときどき思い出してくれるといいなとは思うけど、それさえ贅沢な願いかもしれない。私はときどき思い出す。それだけで十分ではないか。

 

2009/01/20 - 2009/11/23

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この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。

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